自己犠牲のインフレと、日本人気質の関連性。そして世界へ。 - うしおととらの感想

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うしおととら

4.504.50
画力
4.50
ストーリー
4.25
キャラクター
4.75
設定
4.25
演出
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自己犠牲のインフレと、日本人気質の関連性。そして世界へ。

4.54.5
画力
5.0
ストーリー
4.0
キャラクター
5.0
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4.5
演出
4.5

目次

うしおー!無茶しすぎィー!!

うしおは無茶な男だ。

いや、無茶な少年である。彼は中学生、まだまだコドモに過ぎない一介の少年なのだ。

しかし槍に選ばれた、それだけでまたどえらい無茶をしていく。

アクションマンガであるということはそりゃ知ってるさ。それにしたってアナタ、

切れてる!折れてる!炭化してる(足)!

周りのキャラクターの無理もなんのその、うしおの無茶は作品随一である。

他の無茶と言えば、とらが飛行機を着地させたくらいか。あれは確かに無茶だった。

しかし、ほかのキャラクターはそれなりに「自分のキャパシティ」を意識している部分がある。

自分の限界を超えた活躍をしたキャラクターにはその当然の結果として「死」が訪れる。

鏢、凶羅は、明らかに自らの身体の限度を突破した。

二人の死には精神的な面もまとわりついている。特に鏢については、目的を達成した解放感もあるかとは思う。

その点、やはり彼らは人間であり、「我々側」なのだ。

「我々側」ではないのは、けものとなって槍を振るう半妖のうしおであり、この物語の主人公だ。

うしおは獣の槍により強大な自己回復能力を得て(ただし限界あり)、数々の無茶をこなしてきた。

次の回、次の回と、私たちは更なるデカい出来事とうしおの無茶を期待する。

周りの大人たちが言葉に詰まってしまうくらい、うしおは自分だけが傷つく道を選ぶ。

自分だけが、というのに語弊があるなら、自分が傷ついてもいい道だ。

その道は、うしおへのダメージ割合が多ければ多いほど守られる側の被害が少なくなるため、結局10000パーセントの無理をするうしおにより守られる対象はほぼ無傷で守られる。

改めて言おう、槍に選ばれたとは言えうしおは少年であり、周囲には大人はたくさんいるのだ。

彼は立場としては、守られる側であるのだ。本来。

それでも、私たちはうしおに無茶を期待する。

無茶をするうしおはカッコいい。無茶だと分かっているのに立ち向かい、全身の痛みに耐えながらその困難を打破する。

それで守られた(特に女の子)(いらない情報だけどショートカットの女の子が特に)笑顔が素晴らしい。

自己犠牲は我々の希望でインフレする。

それは、日本人の気質からすると仕方ないことなのだと思う。

自己犠牲が礼賛される国、ニッポン

日本において、自己犠牲とは美徳である。

やれ働き方改革がどうのとか、ライフワークバランスがどうとか言っても、結局他人より残業している人間に社会の目は優しい。

過去、日本でヒットした文芸で、他者よりも自己をないがしろにし、その結果として命までなくなってしまうものはあまりにも多い。

宮沢賢治の銀河鉄道の夜では、主人公ジョバンニが「僕のからだなんか百ぺんやいてもかまはない」と言う。

三浦綾子の「塩苅峠」は、主人公が暴走する汽車を止めるためにレールに飛び降り、その体を以てブレーキとする。

萩尾望都の「残酷な神が支配する」では、頼りない母を守るために実質、ジェルミの精神と人生が死んだ。

日本人は、そんな無茶をした人間が死亡、あるいは悲しい定めを負うと、さめざめと泣く。泣いて、「こんなかわいそうなことあるんだねえ」なんて言う。

これは海外、特にヨーロッパ圏の人間には分からない感性だろう。

ヨーロッパとの違い

ヨーロッパの歴史とは、虐殺と強奪、そして逆襲の繰り返し。「僕の顔をお食べよ」なんて言った日には、顔どころかマントや服、パン工場まで略奪されかねない。

しかし、我ら日本人は、アンパンをすべて食べたりしない。なんなら分け合い、かつ目と鼻の部分はちゃーんと残すよう、頭の上部だけにとどめておく。

こんなヌルイことができるからこそ、自己犠牲の精神を受け入れることができるのだ。

世界の三大宗教と言われるユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の経典には、わざわざ自己犠牲の大切さが説いてある。

神様(あるいは神の使徒)から言われなけりゃできないくらい、自己犠牲というのは変わった風習であり縁遠いものなのだ。

しかし、我々日本人はたいていが無宗教(と言っている)人種のくせに、自己犠牲を尊いと感じ実行しようとする。自己犠牲ヒーローにカタルシスも感じる。

これは我々日本人が、「限界のある恐怖」しか感じていないからだ。

自然現象への畏怖と信頼

島国の人間である我ら日本人は、対ヒトへの恐怖心は薄い。

見た目上の人種間差別もない。いや、この問題は大変デリケートなため「少ない」と言った方が良いだろうが。
とにかく黒目黒髪の黄色人種だらけの日本で、見た目で即差別を受けたり迫害されたりする歴史はおおやけには存在しない。

では、私たちの心を動かす「困難」とは何か。

それは、地震カミナリ火事オヤジ、我々日本人が平然と付き合っている自然災害である。

東日本大震災では、多くの外国人たちが日本を離れたと言う。

我々日本人からすると、「キョトーン」てなもんであるが、大地が揺れたり波が襲ってくるという恐怖に耐えることができるのは相当おかしなことらしいのだ。

私たちからすると内紛状態でミサイルが飛んできたり、人種差別がある上にすぐにピストルが出てくるような土地はおっかなくて仕方ない。

それは人災である。ヒトが怖いのだ。

しかし、そんなところに住んでいる人たちが言うのだ。「地震ほど恐ろしいことはない」と。

私たちからすると日常風景くらいの震度3程度の地震は、特に大陸に住む人間からするとこの世の終わりのようなものだ。

我々は木と紙の家を作り、地震や台風で壊れたら「あーあ」とか言いながらまた建て直す。

しかしヨーロッパ人のレンガ作りの家は、築300年など当たり前のように経過した古い建築物だ。

イタリアで地震があった際、泣き崩れる女性を見たことがあるが、日本人なら悲しいがあそこまで泣かんだろう、という泣きぶりだった。

彼らからすれば、地震とは人生すら壊してしまう超ド級の災害なのである。

我々だって地震の大きいのは怖い。
しかし、いつもやってることなのでしょうがないなーって思えるのだ。

地震は怖い。しかし、終わりはあるし限界がある。

揺れたら建て直す。そのために直しやすい家にしておく。

私たちは限界を知っている。そして、それは揺らがない。
自然はここまでひどいことはしてくる。しかしそれ以上はしてこない。

ヒトがやることとは違い、自然は一定以上の悪さはしてこないと、私たち日本人は知っているのである。

ヒトは怖くない。自然も信頼してる。
だから、私たちが対抗するのは対ソトではない。

私たちが克服するのは、弱い自分、つまり自己なのだ。

強い敵に勝つことが目的ではない。自らの限界と戦うことこそが我々の最終目標であり、それをとんでもない熱量で行う自己犠牲ヒーローは最強のヒーローである。

アジアで「おしん」が流行るのだから。

ところで、東南アジアでは「おしん」が人気だったそうだ。

おしんは自己犠牲の塊×不幸な生い立ちの幼子ということで、ものすごく湿っぽい話であるが、これがウケるのなら東南アジアでもうしおととらの良さを分かってもらえるのではないだろうか。

考えてみれば東南アジアも島国であり、当然地震国だ。感性は似ているかもしれない。

また、うしおととらの最大の敵、そして味方は妖怪である。

妖怪とは言うなれば自然現象の具現化。
自然とともに戦い、(つまり「俺たちは太陽と一緒に戦ってる」だ!)自然を相手に自らを乗り越え戦うヒーロー、うしおを、アジアはどう受け入れるのか興味はある。

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