象徴的な映像美によって喚起される、物質的想像力の静謐で豊饒なイメージに満ちあふれた 「ノスタルジア」
ロシアの詩人ゴルチャコフは、通訳の恋人とイタリアの温泉地にフランチェスカの絵画を見に訪れるが、そこで村人から狂人扱いされている一人の隠遁者に出会う。
ゴルチャコフは彼に興味を抱き、彼の代わりに蝋燭を灯して温泉を渡る約束をする。隠遁者がローマの広場で焼身を図っている頃、ゴルチャコフは温泉を渡り、そこで息絶えるのだった-------。
アンドレイ・タルコフスキー監督の作品は、難解だとよく言われます。この映画「ノスタルジア」にしてもそうだ。確かにこの映画には、有り余るほどの豊饒なイメージがあり、象徴的に解釈されるようなシーンにもこと欠きません。
しかし敢えて、そんなことは意味がないと言いたいと思います。この映画で紡がれた映像を、読み解こうとしても、「なぜ火は熱いのか」というような質問に答えるのと同じくらい曖昧な答えしか出てこないのです。
「水は流動性の焔である」-----。これは、ドイツ・ロマン派の詩人・思想家のノヴァリスのアフォリズムだ。タルコフスキー監督の作品について論じられる火と水の象徴性について、その両者の関係をこの言葉ほど見事に言い表しているものはないのではなかろうか。
水をうったような静謐な画面の中の蝋燭の焔。例えば、蝋燭を灯して保養地の共同浴場を横断するという、それ自体では全く無意味であるような行為を、主人公の詩人ゴルチャコフが最後に成し遂げるシーン。
確かにここでは、温泉の水は抜かれている。しかし、ゴルチャコフの歩く水音は、洞窟の中にいるかのように響いている。なぜタルコフスキー監督は物語の成り行き上、湯がはってあるべき浴場をわざわざ空にしたのか? それは「水が流動性の焔である」からだ。
あからさまに満たされた水の映像は、焔が我々の想像力の中に呼びさます水=熱い液体=ノスタルジアの喚起を妨げるからに他ならない。それを呼びさますには、焔の映像と水の音だけで充分なのだ。
焔は視覚的に捉えられる光の象徴であるだけではなく、我々の精神にしみいる熱量そのものの象徴でもあるのだ。だからこそ、他のどのシーンの水も冷たく澄んでいる。つまり、水に対する切実な快さ、水に触れることの快感なのだ。
ところで、この作品でかなり大切な意味を持つ、ゴシック聖堂の廃墟と水の流れ込む廃墟の二つの廃墟の映像が、いずれもロマン派のフリードリヒの絵画である「雪の中の僧院墓地」と「フッテンの墓」とよく似ている点、そして、ゴルチャコフの無関心を罵る恋人が、片側の乳房をむき出すシーンが、中世からルネサンスにかけて描かれていた「授乳の聖母」と同じ図柄である点にも注目する必要があるだろう。
そして、ゴルチャコフが伝記を書こうとしているロシアの作曲家サノフスキーのモデルは、18世紀に実在したロシア生まれの宗教合唱曲の作曲家マキシム・セゾントヴィチ・ベレゾフスキーであることにも要注目だろう。
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