あるひとりの女性の復讐の物語を特異なプロットの中で展開し、人間の心の中の闇を通して法の限界、裁判制度の矛盾を抉った松本清張の「霧の旗」 - 霧の旗の感想

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霧の旗

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あるひとりの女性の復讐の物語を特異なプロットの中で展開し、人間の心の中の闇を通して法の限界、裁判制度の矛盾を抉った松本清張の「霧の旗」

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演出
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何度も映画化、TVドラマ化された松本清張の社会派推理小説「霧の旗」は、特異な女性の魅力を描いた復讐の物語だ。この復讐は、物語のオーソドックスなパターンのひとつであり、とりたてて珍しいものではありません。だが、この作品で描かれる復讐譚は、どこか歪み、ねじ曲がっている。そこにこの作品の特異性があるのだと思います。

強盗殺人で逮捕された兄は無実です。どうか助けて下さい-------。有能との評判を聞き、九州から上京したタイピストの柳田桐子は、兄の正夫の弁護を依頼すべく、大塚欽三法律事務所を訪ねます。しかし、愛人の河野径子との逢瀬に気のはやる大塚は、高額な弁護料を主な理由に、これを断わります。

一度は引き下がったものの、尚も電話で訴える桐子。その声を耳に挟んだのが、総合雑誌「論想」を出している論想社編集部の阿部啓一だった。興味を惹かれ、桐子から話を聞いた阿部は、正夫が犯人だとされた九州のK市の金貸し老婆撲殺事件について調べるのだった。そこには、この件を雑誌の記事にしようとする目論みがあったが、「論想」編集長の反対により実現しなかった。こうした中、柳田正夫は、一審で死刑判決を受け、控訴するも、二審の審理中に獄死してしまったのだ。

一方、桐子からの手紙で正夫の獄死を知った大塚欽三は、ちょっとした罪悪感を覚え、事件の資料を入手して独自の検証を始める。径子との会話がヒントになり、犯人が左利きであり、したがって右利きの正夫は犯人では有り得ないことに気付くが、すべては後の祭りであった。

兄の獄死により故郷を捨てた桐子は、銀座のバー"海草"のホステスになった。そして、その店にたまたま来たのが阿部啓一だった。この桐子との再会をきっかけに、もう一度、事件を調べ直した阿部は、大塚が独自の検証をしていたことを突き止める。さらに想像をたくましくした阿部は、大塚が正夫の無実の証を発見したと確信して、そのことを桐子に告げるのだった-------。

ここから、大塚の愛人の河野径子の存在が、大きな意味を持って立ち上がってくる。径子には大塚の他に、杉原健次という若い愛人がいた。健次は、径子が経営するレストランの給仕頭であり、"海草"のママの弟であった。その健次が、径子との密会場所の家で殺されてしまう。

第一発見者となったのは、とある事情で健次の後を追っていた桐子であった。現場にやって来た径子が、慌てて立ち去ったのを見ていた桐子は、この奇縁を利用して、径子を犯人に仕立てようとするのだった。これがまんまと図に当たり、径子は殺人容疑で逮捕され、さらに大塚と径子の関係が明らかになり、大塚は大打撃を受けるのだった。

社会的な信用を失いながら、それでも愛人を助けようとする大塚は、桐子が事件の真相の鍵を握っていることを察知して、証言を頼むのだが、桐子はそんな大塚を罠に掛け、さらなる絶望の淵へと突き落とすのであった-------。

この歪みの原因は、ヒロインの柳田桐子にあるのだと思います。ある一途な女は、強盗殺人の犯人と目された兄を救うことが出来るのは、弁護士の大塚欣三だけだと思い込み、兄の弁護の依頼のため、彼に会いに行く。しかし、大塚に弁護を断られると「貧乏人には、裁判にも絶望しなければならないことがよく分かりましたわ」と、大塚をなじるのだった。

そして、その後の、兄の獄死と、阿部啓一の話によって、桐子の復讐心は一直線に大塚へと向かうのだ。大塚の推理によって、殺人事件の犯人が明らかになっても、桐子には関係ない。あくまでも復讐すべき相手は、大塚なのだ。しかし、これを大塚欽三側から見てみると、彼にしてみれば、折り合いがつかなかったために、桐子の依頼を断っただけの話なのだ。これで復讐のターゲットにされたのでは、たまったものではない。まさに逆恨みそのものなのだ。

もし仮に、この作品の主人公が桐子ではなく大塚だったならば、理不尽な理由で破滅へと追い込まれる男の恐怖を描いた、サイコ・ミステリーになるのではないかと思います。まさしく、柳田桐子の行動は、サイコ・ミステリーの犯人のそれと酷似しているのだ。では、なぜ作者の松本清張はそこまで、ヒロインの肖像を歪んだものにしたのだろうか?

常識的に考えれば、柳田正夫を冤罪に陥れたのは、検察側のミスであり、日本の裁判制度の矛盾ということになるかもしれない。しかし、桐子はそうは考えなかった。つまり、桐子は法の在り方の限界を批判し、一般論に解消していくやり方に、最後まで抵抗している。つまり、松本清張はこの桐子の在り方を通して、実は法の限界、裁判制度の矛盾などを抉っているのであり、一般論に解消してはならない問題を、しつこく追い続けることによって、桐子の眼と重なる意識をそこに示しているのだと思います。やや、頑なに感じられるほど、桐子に大塚弁護士に対する復讐を企てさせるのも、社会一般の事なかれ主義、なれあい主義に対する容赦のない批判が込められているのだと思います。そして、このことは、柳田桐子というエキセントリックな性格の女性を創造することで、この作品の意図が鮮やかに表明されているのだと思います。

ところが、面白いことに、このように歪んだ行動をする桐子は、ある意味、とても魅力的なのだ。この作品で描かれる桐子は、縦から読んでも横から読んでも、その復讐心理や行動については、一片の同情すら起こることのない不思議なシチュエーションに置かれている。ところが、それにもかかわらず、桐子がどうしても憎めない。そして、彼女の気持ちや行動の中に一片の悪すら見い出すことができないという奇妙な感情にとらわれるのです。

このように、桐子の復讐を肯定したくなるのは、ターゲットが社会的な成功者だからなのだと思います。高名な弁護士であり、家庭がありながら、美人の愛人ともよろしくやっている。しかも、愛人との付き合いは真剣なものであり、後半、自分の社会的な地位を捨ててまで径子を助けようとする姿からは、男気さえ伝わってきます。大塚欽三、なかなか立派な人間だと言えます。しかし、だからこそ楽しいのだ。彼が、破滅へと追い詰められていくのが-------。

「他人の不幸は蜜の味」とは、よく言ったもので、どうも人間というものは、自分と自分が行為を抱く以外の人間の不幸には、ある種の快感を覚える生きものらしい。おまけに、不幸になる人間が自分より地位が高ければ高いほどその快感も高まっていくようだ。こうした感情を抱くのは、"人間の業"なのかもしれません。

もちろん、理性によって、このような"負の感情"を持つことが恥ずかしいことだと、ほとんどの人は分かっていると思います。誰もが胸の奥に隠して、日々過ごしているのです。その隠している部分を、桐子の行動は刺激し、挑発するのだ。かつて桐子の必死の依頼を断った大塚が、愛人を助けるため桐子の眼前で土下座した時、少なくとも私は暗い愉悦を覚えずにはいられませんでした。

恐らく、松本清張は、こうした感情のありかを熟知しているように思われます。それだからこそ、大塚から家庭と愛人と社会的な地位を奪い、徹底的に破滅させたまま、物語の幕を引いたのだろうと思います。桐子の行動を肯定し、彼女を魅力的にしているのは、"人の心の中の闇"だと思います。そのような心の闇が人間にある限り、この作品の輝きが消えることはないと思います。

そらに、この作品をミステリーの観点から眺めれば、探偵役の設定がなんともユニークだ。事件の謎を解き、犯人を指摘するのは、桐子の復讐により破滅に追い込まれる大塚欽三その人なのだ。大塚欽三は弁護士だが、一連の事件に関係しているわけではない。したがって彼の立場は、素人探偵と言っていいと思います。愛人の無実を信じる大塚の推理は、杉原健次殺しと九州の殺人を結びつけ、ついに真犯人を指摘するのですが、桐子の復讐により、それを証明することができないのだ。この意外な真犯人が、この作品のもうひとつの読みどころだと思います。

とにかく、この作品はミステリーの骨格だけを取り出しても、しっかりした見事な作品で、それを特異なプロットの中で展開したところに、この作品の比類なき面白さがあるのだと思います。桐子の肖像と相まって、忘れ難い印象を残す、異色のミステリーだと思います。

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