若返っていく女性と中年男性との哀しいラブストーリー
衝撃的な出会いから始まった
主人公である中年男性田浦は大腿骨骨折により入院していた。退屈な入院生活から一転、彼は近くを走る電車が脱線する予感に取り付かれる。この予感が本当に具体的に描写されており、そのような経験がなくとも誰でも体験したことのある感覚を持ち出すことで、主人公が感じているものを擬似体験に近いくらいに感じることができた。その激しい予感の通り電車は脱線転覆する。脱線といえばどうしても思い出すのはJR福知山線脱線事故だけど(とはいえ全7両であるということや、前2両の激しい転覆など合致することがあったことが少し気になったが)、あれほど被害が甚大のものではないにしろ死亡者はでてしまう。そしてその他大勢のけが人のためにこの病院はごった返すのだけれど、そのため個室にいた田浦は相部屋を頼まれる。しかもその相部屋の相手は女性という、本来ならあり得ないはずの状況だけど、このような緊急事態にはしょうがないことなのだろう。
この女性との間には簡易的なパーテーションはあるとはいえ、布団を直す音、息遣いなどは感じられる距離だ。このときの田浦の気恥ずかしさやなんともいえない緊張がこのあたりうまく描写されており、そわそわとしてしまう様子がありありと伝わってきた。
そういう緊急事態だからこその非日常がなんとなくこの二人をいつもと違う行動をとらせたのだと思う。物静かな印象だった女性のほうから声での性行為をもちかけてきたのだ。お互いいい年をしてそういうことが出来るのかなと思いながらも、不思議と嫌悪感は感じられなかった。それは女性のほうに縋るような必死さを感じたからかもしれない。
次の日田浦が個室に戻るとき、看護婦によって雑にパーテーションが片付けられたときに一瞬見えた隣の女性は老婆だった。女性は悲鳴を上げて顔を隠したけれど、その一瞬で見えた顔は確実に老婆だった。この時はちょっと鳥肌が立ってしまった。ホラーのような、暗い哀しさのような、なにか奥深いものを見たような気がしたのだ。またその時田浦がが感じたであろうなんともいえない気持ちは、それほど言葉にはなっていないけれど手に取るように伝わってきた。
その後は大病院ということもありその女性と会うことはなかったのだけど、田浦は忘れるべき記憶として封印してしまったのだろう。しかし話はこれで終わらなかった。
想定外の姿での再会
封印した記憶を蘇らせたのは他でもないその女性だった。よりにもよって会社に電話をかけてきたのだ。気持ち悪さが先立ったのか憤る田浦だったけれど、出会ってみたらその女性は、記憶の女性の孫だと言ってもいいくらいの若さだったのだ。
この時私は入院生活が長くてすっかりやつれてしまい、その姿を老婆と見まがったのだろうと思った。しかしあの老婆が目の前の女性ではあり得ないこともなんとなく直感していた。そしてそれと同じように田浦も感じていたのだ。まさにこの時私と田浦は同じ感情で同じことを思ったのだと、不思議に思った。時々このような、本にのめり込みすぎてまるで追体験しているように感じることがある。もちろん映画でもよくあるのだけど、あくまで活字である本でこう感じるのは久しぶりのことだった。
私と同じように思った田浦だったけれど、彼女(睦子)の話を聞いていくうちにそうではないことがわかる。信じられないから半信半疑ではあるのだけど、あの老婆がいくらやつれたとはいえ目の前の女性ではないことを確信しているから無理もない。
若返ったという睦子は40手前の着物美人だ。言葉使いは昔風なのが清楚でまたその美しさを際立てている。このあたりから睦子の姿を作り変えているであろう不思議な力が田浦にもいよいよ影響を及ぼしてくる。それがなんとも超常的でありながらもリアリティがある不思議さがあった。
田浦が初めて感じた圧倒的な予感の波は、睦子から発せられたものなのだろうということにこのあたりから分かってくる。しかし睦子も意図的に姿を若返らせているわけではないので、睦子を包んだなんらかの力がということだろうか。
全てがあり得ない設定ながらも、ストーリーから全く目を離すことができなかった。
そして睦子がもっと若返っていくことも想像できたから余計だ。
睦子が20代になってからの切なさ
妻子ある身ながらも睦子にどんどんのめりこんでいく田浦が次に見たのは、20代になった睦子だ。この辺から睦子がもっともっと若返っていくのだろうという予感は的中する。とはいえ、恋に飲み込まれた田浦からすれば若い体に没頭してしまうのも無理はないのかもしれない。が睦子の方はその若返りを楽しみながらもやはりどこか恐ろしさを感じている。それは近いうちに訪れる、若返りすぎることによる死もあるし、自分の体を自分の意思とは関係なく作り上げる力の謎もあるだろう。当然ながらただ睦子に溺れる田浦よりは彼女の方が深く考え深く悩んでいる。もちろん田浦がそれにどう考えても助けることもできないだろう。睦子にはそのようなあきらめのようなものもあるし、また死を前にした人間の一時一秒を大切にするような気持ちや、刹那的な快楽に対する恐れも感じられる。
銃を手に入れ、それで何かをしてみたいという気持ちも本来なら責められるものだけれど、このような運命を背負わされた睦子のやり場のない怒りを昇華したものと思えば、どこかしら痛々しいような気持ちにさせられた。
このあたりから対照的に田浦の浅はかさや至らなさが際立ってくる。ただ睦子を愛することしかできない彼の無力さゆえのあがきかもしれないが、なにかすればするほど睦子の重荷にしかなっていないところが情けなくも人間らしい。
そして、若返りのスピードに対して死を意識し始めたのもこの頃だと思う。
12才の睦子と田浦の世間からの迫害
中身は67歳の老婆だとしても20代から次に若返ったその姿はどう見ても12、3才だった。さすがにこうなってしまうと愛を交わす行為自体が無理になるのではないかと思ったのだけど(睦子の体や田浦の気持ちからも)、もともとある愛情がそうさせるのか、二人は今までと同じような関係を続ける。結果通報されてしまった田浦のあまりにも無防備な状況が、ただでさえ睦子にはまりきっている情けなさと相まって中年男の不幸さ、ふがいなさをすべて背負った印象を感じさせた。
ただ見た目だけ見ると12か3くらいの幼気な子供と中年男性というおぞましい形でありながらも、睦子自身が最後まで淑女のような振舞いを見せるため、不思議なほどグロテスクさはない。ちょうど映画「ゴースト/ニューヨークの幻」でオダ・メイに乗り移ったサムとモリーが抱き合うシーンがあまりにも自然だったこととよく似ている。
とはいえ二人の幸せな時間は終わりに近づいていた。次睦子が若返るときは恐らく幼児になってしまっていることを二人ともが認めながらも話せないところがなんともリアルだった。
4才の睦子、そして悲しいラスト
憔悴しきった田浦の前に姿を現したのは4才にまで若返った睦子だった。ここまで小さければ人前でも抱きしめられるという言葉はなんとも複雑だ。二人が求めているのはそれではないだろうから。
幼気な姿で大人の話し方をする睦子からは不思議な色気が感じられる。田浦もそれを感じているようだったけれど、それを伝えてもどうしようもないつらさが切なかった。
12才のころはかろうじて抱き合うことができても、ここまでなってしまうとそれは不可能だ。しかしそういった直接的な営みがなくとも、愛が限界まで膨れ上がっていることはありありと分かる。何をしてもどうしても必ず別れなければならないという気持ちが、自分自身が経験した切なさを思い出し、感覚の再現としてまた田浦の感覚を追体験しているようだった。
姿を消そうとする睦子の田浦の諍いは身を切られるくらいの真剣さがあった。お互いがお互いのため、そして限りなく自分のためというエゴさえ感じられる。そしてどっちに転んでも二人の最期となる狂おしい気持ちがひしひしと伝わってくるラストだった。
この本は私が初めて読んだ山田太一だけれど、文章の誠実さとリアリティ、ディテールに拘って書かれることによる容易な脳内での映像化など、新しく好みの作家を見つけた思いだ。まだまだ読む本があることが単純にうれしい。
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