色褪せないアンネの日記 ~アンネが私たちに教えてくれること~
今さらのアンネの日記
アンネの日記は聖書に次ぐベストセラーなどと言われるが、今回読んでみて、世界中で読み継がれている理由がよくわかった。アンネの日記は私たちに、ただ戦争の悲惨さを教えるだけではない。自分の意思を持ち考えることの大事さを伝え、人間の持つ可能性を信じさせてくれる。
学生時代、推薦図書としてアンネの日記が挙げられていたこともあったが、読んでみようとしなかったのはなぜだったか…。はっきりこれといった理由はないが、あまり変化のないであろう隠れ家生活の記録を退屈に感じそうだったのと、日記を書いた少女が悲惨な最後を遂げているという事実が重くて、読む気が起こらなかったからだと思う。
だが実際に読んでみると、確かに隠れ家での生活は変化に乏しいが、だからこそ時折行われる誰かの誕生日やクリスマスなどのイベントがどれほど隠れ家の住人の心に潤いをもたらすか、また限られた空間に閉じ込められた人々の追い詰められた気持ち、ぶつかり合いなどがユーモアも交えて克明に描かれており、当初は読み手を意識せずに書かれたものだったのにも関わらず、読み物として出来上がっていて、アンネの文章を綴る才能を改めて感じることができた。
書くことはアンネの命だった
アンネの日記の中にも登場する、アンネの親友であったジャクリーヌ・ファン・マールセン(旧版ではヨーピーとなっている)は、1990年になってからアンネとの親交を記した『アンネとヨーピー』という本を出しているが、その中で戦後、アンネの日記の現物を見たときに、アンネの字がかなり上達していることに気づいたという。
アンネにとって書くことは先のわからない不安な生活や、隠れ家の中で子ども扱いされることへの不満、母親との軋轢など、心の中に蓄積していく澱を吐き出すためになくてはならないものであり、描き続けることで字を上達させ、なおかつ内面の急激な成長を促すことになったのだろう。
ミープ・ヒースはアンネたち隠れ家の住人を支えた主要な四人のメンバーの一人であるが、戦後四十年経ち、他の仲間が亡くなってから、ようやくアンネの日記が世界に与えてきた影響を鑑み、自身の経験を本に記すことに同意し、1987年に『思い出のアンネ・フランク』という本を出版している。
その本の中で、アンネにとって書くことがどれほど重要だったのかわかる記述がある。
ミープは毎朝隠れ家の住人から必要なものを聞き、夕方にそれを届け、会社の休日以外はほぼ毎日隠れ家を訪問していたが、いつもアンネが真っ先に彼女をつかまえ、新しいトピックを聞きたがったという。
ある日、仕事を早く切り上げたミープはふと気まぐれを起こし、退屈している誰かの話し相手になろうと、隠れ家に入った。そこで見たのは、これまで彼女には見せたことのない、沈鬱な表情で日記に向かうアンネだった。アンネは明らかに日記を書くのを邪魔されたことを怒っており、それまでアンネから親しみや尊敬を込めたまなざしでしか見られたことのなかったミープは焦り、自分が見たのはアンネとは違う別人だったと思い込もうとする。
隠れ家の住人にとってミープは命綱であり、常に感謝と敬愛の念を持って彼女に接していたはずだが、アンネが日記に向かう時間というのは、それを忘れさせてしまうほどに深く、自身の内側に入り込む、なくてはならない時間だったのだろう。
それを知っていたからこそ、ミープは隠れ家の住人が連れ去られた後、危険を顧みず入った隠れ家で、散乱しているアンネの日記を拾い集め、アンネが戻るまで決して見ないと決めて大事に保管したのだ。
精神的な独立・その深い考察
アンネは、自分はみんな(主に隠れ家の住人)が思っているような子どもではなく、早熟で、完成した一人の人間であると認識している。
私がアンネを確かにただの少女ではないと、彼女の内面が実年齢よりもだいぶ大人びていると感じたのは、日記の中で戦争の責任について記した箇所を読んだときだ。
アンネは、戦争の責任は偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではなく、名もない一般の人たちにもあると書き記している。これがたかだか十四、五の少女が考えることだろうかと、同じ年ごろの時、「戦争は頭の悪い政治家が起こすもの」と思っていた私には衝撃だった。
そうなのだ、戦争は決して政治家や世界経済を動かす人間だけが起こすものではない。
世紀の大虐殺を行ったヒトラーも、選挙によって選ばれている。選んだのはドイツ国民だ。ばかな政治家…と言いながら、その政治家を選んだのは名もない一般の人々なのだ。自分の頭で考えようとせず、聞こえのよい甘言にだまされ、戦争に突き進む誤った指導者を選んでしまう我々にも、戦争の責任はあるのだ。
私がこのことに気づいたのは三十も過ぎていい大人になってからだったと思う。私が平和ボケした日本人であることを差し引いても、アンネの戦争に対する考察、自国が置かれている状況に対する理解は十代の少女の枠を軽く超えている気がする。
完全版でさらに親しみを増したアンネの人間性
有名なアンネがカメラの方を見て微笑んでいる写真で知られる旧版では、アンネの父親オットーの配慮で性に関する記述や母親を痛烈に批判した部分は削られているが、1994年に出版された完全版ではその部分も全て掲載されている。
完全版が出た当初はこの性に関する記述がショッキングな話題として取り上げられたようだが、私はむしろ彼女が隠れ家の同居人のペーターに男性器について質問したり、自分の性器を観察していたことを好ましく思った。当時は今よりさらに性に関する情報は子どもの目に触れないようにされていたはずだし、そういう隠されたことが気になるのは当然のことだろう。わからないことをわからないままにするのでなく、この人ならと思う人物にそのことを質問したり、実際に自分の目で見て確かめるその行動力は、アンネならではだ。日記を読んだ世界中の人間が思ったことだろうが、彼女が生きていたら、その観察力・想像力を活かしてどんな興味深い作品を書き上げてくれたかと、非常に残念に感じる。
「アンネの日記」のない世界へ
ミープ女史はその著書の最後で、アンネが世界にすばらしい遺産を残したことを認めながら、それでも、と言う。それでも、たとえアンネの日記が世にでることがなかったとしても、アンネや隠れ家の他の人々が生きのびられたほうがよかったと。隠れ家の住人でただ一人生きのびたアンネの父、オットー・フランクも、おそらく同じ気持ちでいたことだろう。世界中の人々を感動させなくてもいい。日記でなく、アンネがこの手の中にいてくれたらと。
私たちが目指すべきは、「アンネの日記」が書かれることのない世界だ。若者が戦争でその才能の目を摘まれることのない世界。違いを認め、異質なものを排除することのない世界。
多くの同胞を失い、地獄を見てきたユダヤ人が、今はアメリカの後ろ盾を得たイスラエルという国から、パレスチナの人々に弾圧を繰り返している。なぜこうなるのか。アンネが願ったのはこんな世界ではないはずだ。
私はアンネのように人間の本質が善であると信じることはできない。だが、この世界を少しずつでもよくする方法は、アンネの日記が教えてくれている。アンネのように自分の頭で考え、この世界で起こっていることに関心を持ち続けること。アンネの日記は、私たちに進むべき道を示してくれている。第二、第三のアンネの日記が生まれることのない世界への道を。
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