ピュア、清廉、そんな言葉が似合う作品
初めての島本理生に最適?!
以前から島本理生という作家が気になっていた。
15歳でデビューして18歳で群像新人文学賞を取り、その後三度芥川賞候補になっている。
つまり文学性が高い若手女性作家という位置づけなのかと思っていたが、宝島社のこの恋愛小説がすごい!や本屋大賞候補にも挙げられ、一般読者にも受け入れられている。
直木賞候補にもなっており大衆小説としての評価も受けている。
いわゆる天才タイプなのかと思わせる肩書だ。
たまたま本屋でぶらぶらしていてこの背表紙を見た時、よだかという文字が目についた。
文学系を目指す作者のこと、当然宮沢賢治のよだかの星を意識したタイトルだとわかる。
しかも以前から気になっていた作家でもある。
これは読んでみねばなるまい、と手に取った。
周知の通り、本作は青春恋愛成長モノであり、結果的には島本理生初読みには最適だったのではないかと思う。
前述の宮沢賢治が書いたよだかの星をベースにしている事は明らかだが、現代の若い女性、と恋愛に特化した形に書き換えている。
クラシックと呼ばれる名作の枠を使っているので、既存のテーマをどう料理するのかという点に着目して読む楽しみもある。
偏見が生まれる瞬間
本作はアイコの顔のアザをキーアイテムとして全編をまとめている。
それゆえ、レビューを書く以上、それについて語らない訳にはいくまい。
小学三年生まで、彼女はそれをハンディキャップだとは感じていなかった。
クラスメイトに、アザの形が琵琶湖そっくりと言われた時点でもまだマイナス意識は芽生えていない。しかし、先生のなんてひどいこと言うんだ! という言葉が彼女に負の気づきを与える。
それが彼女だけが持つ異質なものであり、他人に遠慮や恐れを抱かせるものだとと知った時、彼女を取り巻く環境は一変する。
彼女は世の中に恐怖を覚え、世の中も彼女に恐怖を覚えている、それは自分自身が知らなかっただけのことだったのだ。
その先生の発言は配慮を欠くものであったかもしれないが、彼だけが悪いわけでもない。
人間はコミュニケーションを取る上で、顔というパーツを見ずにはいられない。
人類の文明が発達したのは、表情の変化を情報として伝えることが出来たからだ、という説もあるほどだ。
その顔に異質なものがある。
ほんのわずかなことのはずなのに、例えばそれが背中であればさほど問題にはならないのに、そこにあるというだけで自分自身の価値が変わり、対人関係に影響を与える。
大人同士であればまだしも、子供はその好奇の目を抑えたり、驚きを抑制する方法を知らない。
残酷な目線は他人と対峙しているすべての時間に存在する。
それがどういうものか、本作は微に入り細に渡って、逃げずに書き記している。
その対応は人それぞれであり、答えがあるものではない。
物語の最後で、アイコはそのアザと共に生きていくという結論を出しているが、無論それは全ての人に共通するものではない。
アイコ自身もその人生の中で、また違う答えを求める日が来るかもしれない。
さしあたって望めば消すことが出来るという事実は救いの一端ではあるだろう。
すっきりした文章表現
主人公アイコの語りで話が展開する。
すっきりした文章で読み味がいい。飛坂との関係も数か月を経て進行していくが、間の心情をあまり書き込まなくてもアイコに感情移入できるところに作者の力量を感じる。
恋愛に傾いていく心情や、逢えない時間のもどかしさなど、アイコの感情の変化を説明不足でも過多でもない、ちょうどいいところで上手くとどめている。
サクサク進むのでテンポもいい。
例えば島本理生が書いた別の作品、匿名者のためのスピカは、サスペンス性とキャラクター性でストーリーを引っ張っているが、本作はテーマも展開もシンプルなので文章力が求められる題材だ。
それを直球勝負で書ききっているところは流石である。
ミュウ先輩が事故にあうというベタな展開
本作のなかで、アイコとミュウ先輩の関係は実にベタである。
悲劇性を持った主人公を偏見無く見守ってくれた理解者だったが、偏見を持たれる側に回ったミュウ。
この時、二人はお互いにどう接するか。
自分が属する階層が下がった時、また相手のそれに遭遇した時、自己評価と周囲との関係は劇的に変化する、これは普遍的なテーマである。
周囲の人々は、当然彼女に気を使い始める。
気を使われることに慣れていない人はそこに違和感を覚える。
しかし、自分自身がかつてのように自己と向き合えないのだから、他人が変化するのは当たり前でもある。
他人の不幸は蜜の味、そんな言葉もあるがそのように下賤なことを考えるのはごく一部の人だろう。だが、そのごく一部の人は確実に存在する、という事実を自分の身を持って知ることになる。
恋愛中心であればこのエピソードはいらなかったかもしれないが、作者は敢えてこれを挿入している。
島本理生にとっては、アイコの成長を描くためには、自分を見直すきっかけを作るための他人の不幸が必要だったのだろう。
偏見との向き合い方
ここまで書いたように、人は容姿を気にせざるをえない生き物だ。
わたし自身の体験ではあるが、生まれつき容姿に他人との大きな違いがある人と、幼少時に大きなケガを負った人を、たまたまほぼ同時期、学生時代に知り合った。
二人とも男性だったので本作と同じシチュエーションとは言い難いが、共通して非常に明るく、友人も多かった。
彼等は昨日今日その境遇になったわけではないので既に慣れていたのかもしれない。
だが、当然日々新しい出会いがある。
そのたびに相手は色々な反応をする。
頼みもしないのにいたわったり気を使ったりする人がいる。
敢えて触れないことを良しとする人もいれば、敢えて触れることで平等であろうとする人もいるだろう。
本作で言えば、飛坂はそこに敢えて触れ、飛び込んで来る人間だ。
アイコにしてみれば、世の中のほとんどは、心無い目線を投げつける人と、何もないかのように振舞ってくれる人、このどちらかだろう。
飛坂はその点で特異点だったのだ。
そして飛坂の側から見れば、自分に対する醜聞を気にしないどころか知らないアイコが新鮮だったのだ。
飛坂が、終盤でアイコにかける言葉で印象的なものがある。
あなたが思っているほど、多くの人は、深刻にも真剣にも生きていないんだ
結局、外見、社会性、噂、人はそういうものから逃れられない。
美人、美男子と呼ばれる人々は色々な社会的機会を得やすい。
持って生まれた容姿以外でも、金をかけたしゃれたスーツを着こなしている人と、もう何年も着古した古いTシャツと穴が開いたジーンズを来ている人の社会的信用は違うだろう。
名乗ればすぐにネット検索され、職業や経歴、思想までわかってしまうこともある。
我々は恐ろしい社会に生きている。
結局は、我々はその社会の中で生き抜く自分を、どうにか育てていくしかないのだ。
人が自分をどう見るかに関係ない、自分は今どうであるのか、という問いを抱き続ける、それ以外にこの社会で自分を見失わずに生きていく術はない。
本作はそのような答えを明確に用意している。
本作読了後、島本理生は続けて読まねばなるまいと思い、匿名者のためのスピカを読み終え、現在はナラタージュに取り掛かっている。
どちらも人間の闇やドロドロした部分を克明に描いている。
そんな訳で島本理生という作家が、ピュアだけを売りにするヤングアダルト作家ではないことは既に知っている。
しかし、純粋な若者の気持ちを書ききることがこの作家のテーマなのだろうか、そう思えるほど、この作品は清廉だ。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)