読んでよかったとつくづく思えた作品 - 明日の記憶の感想

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明日の記憶

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文章力
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ストーリー
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読んでよかったとつくづく思えた作品

4.04.0
文章力
4.5
ストーリー
4.5
キャラクター
3.5
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4.0
演出
3.5

目次

お涙頂戴ものだと思い込んでいたので

こういう「若年性アルツハイマー病」をテーマにしたものが一時期多くあった。映画しかり小説しかり。その全てがお涙頂戴のものに感じられて、個人的にこういう系には一切手を出していなかった。だけど荻原浩の作品の中では比較的異色だし、だめだったらすぐにやめようと思いながら手に取り読んでいった。結果、お涙頂戴の仰々しい感情を煽るような文章は描写などは一切なく、ただ淡々と物語が進んでいくもので、しかしその淡々とした中に悲しさや恐怖、あせりなどが十分に感じられ、結局あっという間に読んでしまった。
この物語は終始主人公である佐伯の一人称で進んでいくため、周りの人の感情はあまり描写されない。妻や娘などの表情などは描かれていても、その感情までは書かれていないので、それがいわゆるお涙頂戴ものになっていない大きな理由だと感じた。

社会からのあせり、気づかれまいとする不安

もともとは小さな物忘れから始まったこの病気の描写は、どのような場面でもとても緻密だ。そしてそれをただ忘れていくだけでなく、そこには佐伯の責任や失態が伴ってくるため、働いている以上それは避けなければならない。結果大量のメモという形になるのだけど、あまりに大量すぎてそれはそれで人目をひく。それに対して必死で嘘をつかなければならない佐伯が痛々しく、想像するだけで胃が痛くなりそうだった。彼が一番怖かったのは、通いなれた得意先へ行く道がわからなくなった時だろう。あの時の彼の恐怖を想像すると、本当に冷や汗がでるくらいだった。結果それが病院にいく決意の後押しをしたのはよかったのかもしれないが、皮肉にもあれほど必死で隠そうとしたことも病院の薬を部下に盗み見されることでその病名が露呈する。
荻原浩自身広告代理店で働いていたこともあり、その仕事の内容の描写はいつもリアルだ。ただ「花のさくら通り」などのコメディチックな広告代理店よりも、今回の現実的な物語の舞台である広告代理店のほうがミスにはシビアな恐怖心がついてくる。広告代理店で勤める人が読むと佐伯の失敗はもっと冷や汗ものに感じられるのかもしれない。だからこそ佐伯も必死にやってきたけれど、結局早期退職を余儀なくされた。社会から離れると病状が加速するのではないかと素人でも思ったけれど、やはりそこの予想は正しかった。

日記でもわかる彼の病状の進捗

10月から備忘録をつけ始めた佐伯だったが、漢字も熟語も使いしっかりした文章だった始めのころから比べると、後半からだんだんひらがななどを多用しだし文章も子供っぽくなってくる。このような文章だけでも、彼の記憶がどんどん失われていくことがわかる。
少し違うけれど「アルジャーノンに花束を」も、文章が彼の知能を表すひとつのツールとして使われていた。ここでの日記もそれを彷彿とさせる。そしてそれは読みすすめるのがつらい作業でもあった。
もともと広告代理店として働く彼なのだから、他の人よりも言葉や想像力が豊富なはずである。その彼の書く文章能力が残酷なまでに低下していく様で彼の病状がどんどん進行していく様子が手にとるようにわかる。その進行の早さはあまりにも早く、社会から離れるとこうなっていくのかといわば唖然とした。

魂の拠り所とも言えた陶芸の先生の裏切り

土を練り、形づくって様々なものを作る作業は彼にとって唯一の癒しの作業だったことは想像に難くない。若くして仙人のような風貌をもつ先生につきながら一心に作品をつくる時間は、会社でのしがらみからも逃れることのできる大事な時間だった。だがしかしそこで佐伯がアルツハイマーだということを知った先生が、ささいなサギを働く。焼成料という小さな金額を彼からだましとろうとしてしまったのだ。もちろん始めはそんなつもりもなく、払ったかどうかを言いよどんでいる間に佐伯が一方的に払った形とも言えなくもない。しかしそこで言いよどんだ時点で、心に悪いものがあったことは疑いようがない。しかし唯一の癒しの場所だったところで裏切られた思いは意外にも激しい怒りでなく、静かな哀しみだったことに限りないリアリティを感じて、先生も決して悪人でもないし焼成料という小さな金額というのも相まって、惨めな哀しみを感じさせた。そしてこういうことは、実際アルツハイマー病患者にはまといつく問題なのだろうとも感じた。
この場面は哀しくて切なくて、この作品の心に残っている場面のひとつでもある。

妻 枝実子の苦悩

告知といわれてとっさに想像した癌ではなかったことに胸をなでおろしたものの、アルツハイマーは決して楽観できる病気ではない。余命でいうと4年や5年で、その間にどんどん退行していき最後には自分のことも何もできなくなるという恐ろしいものだ。迷惑をかけたくないからこそ佐伯は自分でそのような患者を受け入れてもらえる施設を探そうとするのだけど、それに必死に抵抗する妻の姿勢が哀しい。今はいつも一緒にと願っていても、退行が進んでいけばどうしようもない事態が訪れることは明白である。施設にいる患者の家族が誰も最初からそこに放り込んだ(という言葉が出ること自体、施設に対しての偏見なのかもしれないけれど)わけでないと思う。双方戦いすぎて、行くところまで行った人のほうが多いと思う。だからといって枝実子の苦悩が解決する訳ではないと思うけれど。
このあたりは、痴呆症の老人をホームに入れるのよりも残酷な決断かもしれない。なにしろ佐伯はまだ50歳になったばかりなのだから。子供も巣立ち、人生これからという時に、精神的にも金銭的にもつらすぎる状況だと思う。
だからこそ枝実子が様々な療法や怪しい病気平癒グッズに手を出してしまったのだろう。藁にもすがる思いとはこのことだろうというくらい必死に色々なものを買い求める。穏やかな佐伯が怒ったのも無理はないけれど、普段穏やかだった彼が声を荒げたという変化がまた病気から来ているのではという不安をもたらし、まるで悪循環になっている状況に、自分自身が狭い枠に押し込められているような息苦しさを感じた。

哀しいけれど穏やかなラスト

学生時代に訪れていた山の中にある釜に一人で趣き、当時の師匠だった老人と出会う。その師匠は学生の頃から既に老人だったのだから、今はかなりの年のはずだけどやはりその師匠も痴呆症に犯されていた。とはいえ時々正気に戻る様子で、佐伯の手伝いもあり久しぶりに釜に火を入れる。そして焼く器と共に、アルミにくるんだ玉ねぎやじゃがいもも一緒に放り込み食べる様は、彼も老人も痴呆が治ったのではないかと思わせるくらいの平和で穏やかな時間だった。佐伯自身、病気のために食べていた食事という名の苦行が、ここでは別物のようにおいしく幸せに感じられ、生きるということを実感した時間だったのだと思う。
師匠の痴呆が佐伯に比べて進行が進んでいたように感じたからか佐伯の病状は良くなったかに思えたのだけど、ラストの展開は思いもかけないものだった。そして肩を揺さぶったら思い出すかもしれないのに、そうしなかった妻の懐の深さに感動を覚えると同時に、、もしかしてそうすることもできなかった哀しみの故なのかと、ついつい涙腺がゆるみそうになってしまった。
ただ一つ苦言を呈すると、表紙に映画化されたときの主人公渡辺謙が印刷されていることだ。ぱっと見てしまい頭に入ってしまったので、文章で想像する佐伯が常に渡辺謙で再生されてしまったことが残念だった。渡辺謙が嫌いというわけではないのだけど、文章を読んで想像する世界は限りなく個人的なものだから、他からの情報をなるべく入れたくないのもある。あとで、映画化するなら誰がいいかと想像することもできなくなるので、ここはイラストか風景などでよかったなと思った。
それ以外は完璧だったので、今まで避け続けてきたけれど読んでよかったと思えた作品だった。

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