都会の荒涼と現代人の孤独とひとりの女の哀れを、深い絶望の寂寥の魂の叫びで鮮烈に描く 「ミスター・グッドバーを探して」 - ミスター・グッドバーを探しての感想

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ミスター・グッドバーを探して

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キャスト
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都会の荒涼と現代人の孤独とひとりの女の哀れを、深い絶望の寂寥の魂の叫びで鮮烈に描く 「ミスター・グッドバーを探して」

4.04.0
映像
4.0
脚本
4.0
キャスト
4.0
音楽
4.5
演出
4.0

このリチャード・ブルックス監督の「ミスター・グッドバーを探して」は、凄い映画だ。残酷な映画だ。我とわが身を噛むような、やりきれない映画でもある。

都会の荒涼と、ひとりの女の哀れとを描いて、身を切るような痛みの広がる、凄絶な人間ドラマだと思う。一言で言えば、この映画は若い女性の性の遍歴の物語。だが、そのほかの凡百の映画のように、甘ったれてはいない。

アメリカでベストセラーになり、日本でも翻訳出版された、ジュディス・ロスナーの原作の同名小説の映画化作品ですが、彼女はこの小説を書くにあたり、新聞の三面記事、それも見落としそうな小さな記事にヒントを得て、作家的な想像力を膨らませて書き上げたと言われています。その記事の大要は、「X日、ニューヨークで23歳になる聾唖学校の女教師XXが、バーで知り合った男を自宅のアパートに連れ帰ったところ、彼に惨殺された」というものでした。

荒廃した大都会では、ほとんど日常の出来事にも等しい"殺人事件"なのであろうか。そこが恐ろしい。そして、その陰に秘められた、ある女の凄愴の生きざまと、無惨な青春が痛ましい。

ヒロインのテレサ(ダイアン・キートン)は、平凡なつつましい家庭の娘だ。とりたてていえば、父親は頑固で昔気質なカソリック教徒で、彼女自身は幼い頃ポリオ(小児麻痺)を患い、大手術の傷あとを背中に残し、誰も気づかぬほどに片脚を引きずることが、彼女の性格を屈折した内向型に沈めていたのです。

だからと言って、彼女を特別な娘だとするのは、当たらない。躾の厳しい家庭に育った娘なら、自分の行動を規制されるだろうし、規制への反撥になぜか罪悪感も伴うだろう。テレサは、彼女とは全く対照的に、コケティッシュな美人で、甘えん坊で身勝手で、派手な男出入りの絶えない、スチュワーデスの姉キャサリン(チューズデイ・ウェルド)を羨望し、嫉妬し、密かな劣等感を抱いていたのです。テレサは、決して不美人ではないのに、お化粧っけもなく、飾らず、むしろキャサリンより、ずっと魅力的なのに-------。

そんなテレサは、ごく普通の女の子だ。ただ、自らの抑圧が強すぎて、だから彼女は時に異常なまでの夢想にとらわれる。短大に学ぶ彼女は、女子学生の憧れの的の、実はくだらない俗物の若い教授(アラン・フェインスタイン)に恋して、誰もいない教室で彼から熱烈な愛撫を受ける自分を妄想したりするのです。

その教授に文学的な才能を認められて、学生たちの答案を採点するアルバイトに採用され、天にも昇るうれしさのテレサは、彼の自宅の書斎に通い、ポリオを病んだ身の上を語り、「でも同情しないで、私を犯して」と迫り、処女を捧げるのです。びっくりして、だが飛びついて、たちまちにして果てて、以後も隣室にいる女医の妻の眼を盗んでは、あわただしくセックスを貪る俗物教授の、吐き気がしそうな薄汚さ。

まもなく彼は、新しい相手を求めて、あっさりテレサを捨てる。捨てられて失意のテレサは、奔放な姉キャサリンが、金持ちのユダヤ人男性と新婚の家で繰り広げる、マリファナやポルノ・フィルムのワイルド・パーティに眼を丸くし、自分とは違う世界に、疎外感を味わうのです。

そして、夜明けに帰ったテレサが、姉の家にいたとは信用せず、不品行を責めて罵る父への反抗をスプリング・ボードに、彼女は家を出て自活することになる。"自立"。それにしても、親兄弟の家族と共にいる、平和な家庭にどっぷりとつかっていてさえ、孤独のすきま風が吹き抜ける現代だ。大都会の片隅で、ひとり暮らす心の寂しさは計り知れないものがあるだろう。

教習を受けて、聾唖学校の教師となったテレサは、その孤独をまぎらすために、夜の街をさまよい歩き、いつか馴染みのバーができた。シングルズ・バーと呼ばれる一軒、煙草の煙とアルコールの匂いと、人いきれでむせかえる安酒場"ミスター・グッドバー"に、いつか彼女は夜ごと通うようになるのです。

行きずりのセックスを求める孤独な人々の群れに身を置いて、孤独なテレサは男を拾う。それは、"孤独の居直り"であり、"深い絶望の寂寥の魂の叫び"なのかも知れません。昼間は、幸せ薄い特殊学級の子供たちに、こよなく優しい誠実な愛を注ぐ、生真面目なまでの教師でありながら、夜は娼婦のように豹変する。いや、娼婦とはいえない。金銭を求めはしない。体を売りはしない。愛も同棲も結婚の見返りも欲しはせず、ただセックスの快楽に身を委ねて、ことが終われば男を追い帰し、ひとり自由な、せめてもの安らぎの眠りにつく。なんという、凄絶なまでの虚無だろう。

相手はヤクザな若者や、冴えない中年男。そうしたひとり、荒々しく卑俗な無頼の若者トニー(リチャード・ギア)が、彼女にぞっこんとなり、屈強の肉体を誇らしげに、恋人気取りで出入りする頃、テレサには、大真面目な堅物の民生局員ジェームズ(ウィリアム・アサートン)が、真剣に求婚をしてくる。

一時は、カソリックの神父さえ志した、この純な若者の、押し付けがましい清潔さに、テレサは反撥する。両親が大歓迎して結婚を勧める彼を、冷たくあしらいながら、それでもあまりにひたむきな純情にほだされて、彼にあげようと、いたずらっけを起こして、けれど、すでに不妊手術をしている彼女とも知らず、あわてて避妊具をつける彼に、吹き出して笑い転げてテレサは、憐憫の情さえあらわにするのです。なんという、女の残酷さだろう。

そして、この真面目青年を、ここまでおとしめて侮蔑するまでに、彼女は蓮っ葉な女になり果てていたのです。その傲慢に、まるで神が下した罰のように、彼女は最後の"運命の男"とめぐり逢うのです。熱い視線でつきまとうジェームズから逃れるため、いつもの酒場で拾ったその若者は、無一文で田舎から出てきて、ホモセクシュアルの中年男に囲われ、そんな生活の自己嫌悪を振り切ろうとした、美貌のゲーリー(トム・ベレンジャー)だったのです。

ただ彼は、一夜の宿を求めていたのです。テレサの誘いに応じて、アパートへ連れ込まれて、そこで男性回復を図って安眠を得ようとしたのに、あせる肉体は女性の体への反応を示さず、「帰って!」と、突き放し嘲笑する彼女に、傷つけられたゲーリーの自尊心は狂い、テレサを殴りつけて血を見て、ようやくよみがえった男性は、彼女を暴力で犯そうとして、激しい抵抗にあい、遂に彼女をナイフでメッタ刺しにして、惨殺してしまうのです。

ストロボ照明が点滅する中で、抵抗もむなしく無惨な死を遂げるテレサ-------。

いったい、彼女の"自立"とは、果たしてなんだったのか。もう、愛を信じない、即物的なセックスを拠りどころとして、しかも決して満たされはしなかったテレサの、凄惨な自己破壊の生きざまと死にざま。ここまで深い、女の孤独の凄絶さ。

このヒロインの"孤独"は、決して他人事ではなく、大都会の中で孤独な魂をさまよわせて生きる、我々一人一人のものなのかも知れず、震えるほどの戦慄を覚えるのです。

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