苔食、肘に生息する謎の二人、不思議ちゃん小川洋子の世界
いきなりコケを食う それもさりげなく…
エッセイも数多く書いている小川洋子なので、原稿零枚日記というタイトルを見て、ああ、原稿はあまり進まないトホホな日々だけど、こんなさりげないうふふがあったのよ、的な現実を笑い飛ばすようなエッセイ集かと思ったが、全く違った。
これは彼女が時々書く、架空の作家の話だ。
一発目から苔(コケ)のフルコースを食する話があり、しかしこれがグロテスクな訳でもない。有名ではないけど本当にこんな料理があるのかな、と思わせる。
調べてみたがミズゴケはごく限られた地域で食する地域もあるらしいが、やっぱり創造の世界であった。
主人公が小説家であり、科学関連の取材旅行に来たり、熱狂的な阪神タイガースファンであることも明記されているので、ほとんど小川洋子本人にも見える。
しかし、幼児期に過ごした家の取材を受ける話に至って、これは小川洋子の妄想世界だ、彼女が得意な不思議ちゃん世界だ! と安心して浸っていける。
炸裂するユーモア、これも小川洋子の得意技
おばあさんのひじに住んでいるネネさんとわこさん。
ひっそりと運動会を見に行ったのに、借り物競争に引き込まれて巻き起こる、小川洋子作品にしては珍しいジェットコースター展開。
パーティ荒らしに遭遇し、図らずも未熟な彼をかばってしまう不思議な展開。
慣れない人はなんじゃこりゃ、と思うかもしれないが、小川洋子ファンにとっては、これが彼女独特のユーモアとして味わい深い。
もし、一度読んだけど良くわからなかった、買ったけど意味不明なので古本屋に売ってしまおうか、という方は十月のある日(火)と(日)、四月のある日(水)に着目してほしい。
ここは無条件に笑えるシーンが連発だ。
読み方としてはここを起点に前後に広げていけば、徐々に小川ワールドが理解できていく、と思われる。
日記という題材を描く宿命
小川洋子がアンネの日記を愛していることは、数々の文章や対談で語られている。
彼女はアンネ・フランクゆかり地や、彼女の日記を存続させることに尽力したミープ女史の元を訪れ、悲劇の地アウシュビッツの見学もしている。
その彼女であればこそ、日記というもの自体が題材になる、と発想したとしても不思議ではない。
いや、むしろ、一度は挑んでみなければならない宿命的な題材だったと言ってもいいのかもしれない。
思えば、日記というものは本来自分自身が唯一の読者である。
そのため話の盛り上がりや整合性を必要としない。
多くの人はその日の出来事を書くのだろうが、写実的である義務もなく、その日空想した事、ありもしない作り話を書いても誰も文句は言わない。
小川洋子はこの作品でそういう取り組みをしたのかもしれない。
そう考えると、日記を書いているのは小説家であり、女性である、という前提で我々は読んでいるが、それすらも真実かどうか明確ではない。
小説家を夢見る妄想癖の老人男性と仮定することもできるし、もしかしたら自分の娘が小説家だったら、と空想を巡らせる言葉を無くした老婦人である可能性もある。
そのような想像をする時、我々が拠って立つこの地平すら架空のものであるような錯覚を彼女は生み出す。
まさに言葉の魔術師と呼んでもいいのかもしれない。
それほどに、本作の中では実在のものと架空のものの混在が見られる。
中盤に、母と買い物に行く、というシーンが描かれているが、買い物に疲れて休憩しようと和風喫茶に入った時、いきなり「お一人様ですか」と声を掛けられる。
そこで我々は、主人公と母が一緒に買い物していたのではない、という事実に気付かされるが、ではこの母が何なのか、と気になる。
次ページで入院している母が描かれるので、母そのものは妄想ではなく実在するのだ、とわかるのだが、では買い物は病気の母を想う娘の、健全な願望なのか? あるいは主人公が妄想癖に取りつかれていて、現実との境目が怪しくなっているのか? それを判断する材料は結局与えられないままだ。
ある意味、SF的ですらある。
家に市役所の生活改善課の担当者がしばしばやって来るという設定も不思議だ。
彼女は精神を病んでいるのか、あるいは単に所得が低いのか。
とは言え取材を受けたり、出版社のパーティに呼ばれたりするところを見ると一定の社会的地位はあるようにも思える。
少なくとも無名の作家が、週刊誌から幼少期の生活を取材されるようなことはあり得ない。
しかし、パーティ会場では殆ど話しかけられてはいないので、大物作家というレベルには達していないのだろう。
読めば読むほど謎である。
後半の盛り上がり、T町の現代アートの祭典の謎
現代アートを見学するというごく一般的な行為の途中で、次々と消えていく人々とは何を意味しているのだろうか?
本作執筆から2年後の「ことり」発表の際のインタビューで、彼女は喪失という言葉についていろいろ語っているので紹介する。
http://qonversations.net/kano_ogawa/3252/
小川洋子は、喪失という不幸の湖の中に瞬間的に喜びが浮いているのが人生だと語っている。
本作に向けたコメントでないだけに、これが彼女の普遍的考え方であることが伺える興味深い会話だ。
意味を理解する間も与えられないまま、次々と人が消えていく体験を、主人公は日記の中で以下のように綴っている。
私の人生はすぐそばにいる人を失うことの連続ではなかったか。
このパートはファンタジーのようであり、ユーモラスな表現も多い。
しかしふわふわとした不思議と、さりげない笑いの背後に常に喪失という暗黒が見える。
その暗黒に立ち向かっているのが、喪失の対極である新しい命なのだろう。
だから、主人公は幼児期の体験にこだわり、見知らぬ子供たちの運動会に出向き、子泣き相撲を見物し、新生児室をそっと見つめる。
喪失が悪で、新しい発生が善というのではない。
それらは無限にループする円環であり、それこそが人生なのだ。
主人公はあるいは作家ではなく、ただ無為の日々を慰める妄想をつづっているだけなのかもしれない。
それでも、誕生と死という環を確認することで安心と救いを得ているのだろう。
本書は小川洋子の脳内を切り開く百科事典である
小川洋子が日記と並んで愛するものに百科事典や博物館がある。
本作は、もしかすると小川洋子の脳内の全てを取り出し、百科事典のように並べてみたのかもしれない。
そんな目線で見ると、本作の中には、他作品にもみられるモチーフが無限につづられている。
彼女自身が小説家を目指す礎になった日記という存在。
彼女が愛する動物、阪神タイガース、赤子。
彼女が得意とする、ユーモア、言葉へのこだわり。
彼女の内に潜む、不思議、身体の一部分へのこだわり、妄想、原稿進捗のプレッシャー、盗作問題。
彼女がもっと知りたいと思う、宇宙線、百科事典、カワウソの肉球、ヤゴ、文鳥、現代アート。
これらは彼女の作品の中で度々姿を変えて出てくるモチーフだが、それを図鑑のように網羅することが本書の目的だったのではないだろうか。
コケ料理は彼女の妄想だが、エンディングに出てくる深海魚は実在の生物だ。
おばあさんのひじに住む謎の二人はファンタジーだが、原稿が進まないプレッシャーは常に彼女の内にある。
子泣き相撲も実在の行事だし、小川洋子が岐阜県の飛騨までスーパーカミオカンデを見学に行って宇宙線という存在をしったのも本当だ。
運動会荒らしやパーティ荒らしは彼女なりのユーモアだろう。
小川洋子の他の小説を読むときに、この小説を参照しながら読む、そういう楽しみ方が本作の一番のあるべき姿かもしれない。
エンディングを盛り上げず、百科事典を書き写しながら終わる、そんな描写はこの本のありようを表している。
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