不思議な読後感を伴う作品、その原因を探る!
目次
不思議な読後感を伴う
この小説、いろんな感想が混ざった不思議な読後感がある。
そもそも、含んでいる要素が非常に多い。
貧困、障害、社会悪、震災、邪悪な新興宗教とそれに傾倒してしまった若者、恋愛、小説を書くと言う行為、そして放り出された結末。
それらの多くがこの1995年1月に集約するとも言えるし、個々の出来事がこの厄災の年にたまたまクロスした、ともいえる。
この集約をピンポイントで上手くとらえた森絵都を、上手い!と褒めるべきなのか、盛り込み過ぎじゃないか? と 突っ込むべきなのか、この時点でも私はまだ考えている。
礼司と結子のラストシーンは間違いなく秀逸だ。素直に泣ける。
でも、という気持ちも残る。
以下に細かい分析をしていこう。
冒頭は世界観の説明がなく、ちょっと乗りにくい
プロローグ部分でマラリアという言葉が出てくるので、最初は第二次世界大戦中あるいは戦争直後の混乱の時期を書いた小説かと思った。現在の日本国内では、それは日常的に使う言葉ではないので、過去の事を書いているか外国の事を書いているか、そのどちらかに限定されるのだ。
続いて関西を襲った大地震という言葉によって誰もが阪神淡路大震災を連想するが、デリーという言葉がインドを思わせるので、やはり外国が舞台なのか、とのミスリードを生む。
更に暴動、また人が死んだなどの物騒な言葉が並び、これは現代社会とか現実社会ではないファンタジックな世界なのか、という迷いも出る。
作者・森絵都は、過去作「ラン」のようなファンタジーも書いているので、熱心な読者としてはそう考えても仕方ないだろう。
そして何より、最大にわかりにくいのは、しばしば出てくる釜という言葉である。
西成かあいりん地区というキーワードを入れるなどしてくれればもっと早くわかったのだろうが、これがわかるまで話が呑み込めず、読者は置いてけぼりになる。
九州生まれで関東暮らしが多い私にとって、釜ヶ崎、かまってなんやねん? としか思えない。
この日本の現状を知らなかったのか! と驚かせることも目的なのかもしれないが、ちょっと不親切に過ぎる。
本作は書き下ろしであり連載小説ではないので、少々わかりにくくてもみんな振り落とされない、という前提なのだろうか?
私も一応文章を書く人間なので、強く意識する部分だが、キャラクターの精神世界や行動理由などは謎にしておいて、それを解き明かすことを展開の面白みとする、という手法はアリだと思う。
しかし、空間的背景や時代背景は早い段階で説明した方が親切だ。
全体に良作! と思える作品なだけに、この部分は残念でならない。
もう一点、非常に残念な部分があるが、それは最終章で語ろう。
中盤の青春テイストはさすが! 森絵都のヤングアダルト感覚が冴える
礼司が結子と知り合っていく過程、自転車で移動する風景などはシンプルにワクワクする部分だ。物語がどうなっていくのかはまだ見えないが、さすがヤングアダルト向け文学を得意とする森絵都、と思わせる瑞々しい文章が、それまで戸惑っていた私をこの世界に引きずり込む。
特に自転車を降りてヒールを脱ぐシーンは画像がくっきりと目に浮かぶ。本作は「釜」を知らない人間にとっては、ビジュアルの想像がつきにくい表現が多いので、このシーンとラストのジャンジャン横丁の外れにある小汚い定食屋が妙に記憶に残る。
なかなか明らかにならない結子の人生、当然進まない小説執筆、読んでいる方も釈然としない展開が続くが、森絵都テイストが何とかストレスに打ち勝ってページを進めてくれる。
その中で釜をキーワードとして結子と敦の過去が明らかになっていく。
ここに来て読者はようやく、そうか、これは貧困を題材にした作品なのだ、と覚悟を決める。
ここまでが長すぎる気がするが、釜が舞台であることに、もう一点問題がある。
本作は殆どの登場人物が関西弁で会話するが、敦と二谷はキャライメージが濃すぎて、ちょっと森絵都の文章に馴染まないように思う。
最近の作家では、関西育ちで有名な西加奈子も関西弁をふんだんに使った小説を書くが、ネイティブの西加奈子に比べると、森絵都のそれは読みやすい。
会話以外は標準語であることも我々を安心させる要素かもしれない。
それだけに敦と二谷の存在はマイナス要素を濃くしてしまう。これも不思議な読み味の一因だと思う。
結子の魅力が増し、語り部・礼司自身が途中から話に踏み込む不思議な展開
全体の8割を超えたところで、ようやく礼司自身の事が語られる。この構成も作品としては結構賭けだ。
一人称で話を語る場合、語り手は傍観者か中心人物のどちらか、それが話づくりのセオリーだと思う。
しかし本作では、礼司が中心から脇へ、脇から中心へ、出たり入ったりする。
既に終盤、というところで、いきなりぶち込まれる彼の障害と、それにまつわる記憶とで、読者はようやく礼司を理解し、語る対象であったはずの結子の視線で語り手礼司を見つめる、という画面の切り替えが起こり、ここでおそらく多くの読者がここまで読んできて良かった、と納得するだろう。
森絵都は前述の賭けに、ここでは勝利する。
しかし、ハッピーエンドでは終わらず、作品の読み味を左右するもう一つの賭けが最後の最後に用意されている。
いや、話の結びは礼司と結子が理解しあうというハッピーエンドなのだが、話には描かれない阪神淡路大震災がこの直後に起こるのだ。そして更に、結子が夢を紡ぐ予定の東京では地下鉄サリン事件も待っている。
全てを飲み込んだ1995年
その後の社会で、生きているのが明確なのは大輔と木之下教授のみ、他の人物は生死不明でこの物語は終わる。
礼司も結子も敦もまっちゃんも、どうなったのかわからない。
結子は東京でネイルサロンを開業することができたのだろうか?
そしてその傍らには、小説家になった礼司が絶対無敵の性欲とともに、存在しているのだろうか。
そこは作者が敢えて語っていないのだから、勝手に解釈してね、という事なのだろう。
私もそれ自体は語るまい。
では語るべきは何か… 本作の意味だ。
このレビューを書くにあたって、何度も読み返した。正直に言うとこれほどレビューが書きにくい小説は少ない。捉える方向、開くページによってさまざまな顔があるのだ。
でも書くと決めた以上、書く。
一言で断ずるなら、本作はやっぱり盛りすぎである。
何が余計か、オウム関連の大輔についての記述だ。
1995年を総括して語ることが作品の趣旨なら、もちろんその件は外せない。あの教団がそれほどに日本社会を揺るがせたのは事実だ。
しかし、本作は釜ヶ崎を中心とする貧困、その場所を代表するキャラクターたちがメインだ。
この時代の歪みの根源として、オウムを出したくなった作家としての欲望はわからないではない。
かの村上春樹も、震災と地下鉄サリン事件をこの年の厄災として連ねて書きたがるように思う。
だが、私は思う。その二つはたまたま時期が重なっただけの別の現象だ。
一緒くたにするのはそれぞれを余計に見えにくくする行為なのだ、と。
オウムの件を無視すれば、大輔という存在は無くなり、前述した冒頭のわかりにくさも無くなる。プロローグの存在自体が、大輔というキャラクターに救いを与えるためのパートでしかないのだ。
いきなり釜にいる礼司とカジノ視察に来た二谷が知り合う、という構図で十分に本作は成り立つではないか。(無論カジノ計画の存在は冒頭では伏せておくべきだが)
どうしても大輔を入れると言うのなら、彼と貧困のかかわりを持たせても良かったかもしれない。あるいはどうしてもオウムを語りたかったのなら、創作だとしてもカジノ計画にオウムが絡んでいる、などもアリだったかもしれない。
なにしろやっぱり中盤以降の大輔の存在は、紙面の無駄にしか見えない。
そこを排すればずいぶんと本作は見通しが良くなる。
釜の悲哀、礼司と結子それぞれが持つ悲哀はきちんと描かれているし、そこを脱して生きていく彼らの希望も描けている。
もしも、本作を映像化しようと言う人が、奇遇にもこの文章を読んでいたら、是非そのような方向も検討してほしい。おそらく現在の文章に忠実に作成するよりも、礼司と結子の物語が心に染みるものになるはずだから。
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