限りなく重く限りなく暗い物語たち
時間を感じる表装の本
この本を図書館で借りたとき、その本の古さに驚いた。記入式のカードを差し込むポケットがついていたりという懐かしい古さもあるのだけれどそれだけでなく、ページとページの匂いが昔の図書館でかいだものと同じだった。そうそう、昔の本はこんな匂いがしてたと色々なことが思い出された。記憶と匂いはセットになっているとよく言われるけれど、その通りだと思う。この本を読み始めるしばらくの間、過ぎてきた年に思いを馳せることができた。ちなみに初版発行が昭和46年だった。
村上春樹の「ノルウェイの森」で永沢が、死後30年を経ていない作家の本は手に取らないという場面がある。そこで彼は「時の洗礼を受けたもの以外を読んで時間を無駄にしたくない」と言う。それはどこか不遜な態度さえ感じる言葉だったけど、時々その言葉を思い出す。そしてそれは決して間違っていないと思う。
もちろん吉村昭が死んでからは10年程度しかたっていない。けれどこの本が書かれてから45年くらいにはなる。そしてその古さがないとこの作品の詩的な美しさは成立しえないだろう。
だからこそ「彼くらい立派な作家ならアンダーパーでいい」のだと思う。
救われない主人公たちと、後味の悪さ
この作品には短編が5つ収められている。それら全ての共通するテーマは「飼っている動物」についてだ。例えばタイトルにもなっている「羆」は、母熊を仕留めた時に放っておくことができなかった小熊を飼うことで、時間がたってから凄惨な事故を引き起こしてしまう。主人公の男はこの成長した小熊に愛妻を殺されてしまうのだけど、殺意を滾らせながらも、小熊のころのリュックサックにいれたときの重みやエサをねだる愛くるしい態度を思い出してしまい、ついその殺意を鈍らせてしまう。そしてそのような自分もまた許せない存在になっている。また少し離れた土地の猟友会の人々も山狩りに参加してくることで、その小熊“権作”は誰にも殺させないといった感情も芽生えてくる。本来この夫“銀九郎”は、名の知れた熊撃ちである母親からその技術を受け継いでいる。受け継いだその技術は他の熊撃ちとは一線を画している。嫁をもらってからは共に生きるため、熊撃ちとしての技術を封印して幸せに生きてきたのに、その幸せは熊によって打ち砕かれることになったことは皮肉なことだろう。
銀九郎の妻、光子には赤いあざがある。紅葉を見るたびにそのあざを思い出す回想の場面は、痛々しいほど哀しいのに美しい。きっとそれは紅葉の赤よりもきれいなのかもしれない。暗いながらも色鮮やかな場面が、印象的なところだ。
最後、銀九郎が権作を仕留めたところはかなり後味が悪い。誰も救われない。そこに限りないリアリティがある。この短編集はそういった物語ばかりを集めた作品である。
吉村昭の作品を他の作家の作品に感じたこと
一つ目の「羆」、2つ目の「蘭鋳」。この二つを私は荻原浩の小説に感じた。荻原浩の作品で「二千七百の夏と冬」で、主人公のウルクが執拗にヒグマに追いかけられる場面がある。襲われ追い立てられながらも、意を決して対峙し勝負するのだけど、彼が襲われたヒグマはこの羆ではないかと思う。吉村昭の文章を読んで想像する羆と、荻原浩の書く文章で想像するヒグマが同じ姿形をしているのだ。もしかしたら参考文献とかになっているのかもしれないけど、そういうことを感じるのはなにかうれしかったりする。同じように、「蘭鋳」の玉姫は、荻原浩の「金魚姫」のリュウを彷彿とさせる。もちろんリュウは琉金なので種類は違うのだけど、吉村昭の描く玉姫のヒレを翻す様子などがどうしても私が想像したリュウと合致する。私が荻原浩を先に読んでいたからこう感じたのかもしれない。発見といってしまえば断定するようでもあるけど、ある意味発見のように思う。
全く関係ないけれど、村上龍の作品が時に「Hunter×Hunter」の場面を想像させることがある。それも富樫義弘がもしかしたら村上龍を読んでいたのかもしれない。
今まで気にしたことのなかった動物たちの性
この短編集のいくつかの話で印象的なのは、その動物の性がいわば芸術的に描かれていることだと思う。例えば「蘭鋳」の玉姫を追い掛け回す金剛。対して玉姫はゆらりと逃げながらもその感情を高ぶらせていく様子が如実に描かれている。切なげに尾ひれを揺らすその様子は、今まで感じたことのない美しさだった。
もう一つは「鳩」。レース鳩として飼い主にその性をコントロールされながらも、果敢に激しく生きる様子が逞しい強さを感じる。鳩がそのような生態を持つことさえ知らなかったし、鳩といえば街中にどこにでもいる鳩しか思い浮かべることのできない自分としては、その動物としての美しさに新たな発見をした思いだった。
どちらかといえば軽くいわば感情が伴わないように描かれがちな動物の性が、ここまで芸術的に昇華されている文章を今まで読んだことはない。それは生としての性がいかに美しいかを目のあたりにさせられた気分だった。
「ハタハタ」
この短編集の最後に収められている話である。ハタハタが産卵のために入り込んでくる湾に住む村人たちは、今年はハタハタが入ってくるのかどうかという悩みを常に抱えている。毎年入ってくるというわけでないからだ。入り組んだ湾にはたくさんの集落があり、そのどこに入っても自分の湾に来なければ収獲は一切ない。その厳しさから集落の皆が猜疑心にあふれ、他者の幸せを喜ぶ余裕などない。よその湾にハタハタが入った年などはその集落を憎み、敵対するような印象さえ受ける。逆にハタハタが入ってきた年は祭りのように浮かれ、文字通り盆と正月が一度に来たような騒ぎになる。
主人公の俊一の父親と祖父は、ハタハタが5年ぶりに湾に入るという知らせと同時に海に入り、遭難し溺死する。皮肉にもハタハタはシケのときにしか来ないからだ。網を一旦外して準備にかかろうといった矢先の不幸に、俊一の家族は現実についていけていない。祖父の遺体があがり、事故状況などからも父親ももう生きてはいないだろうという予測の中、村人は気を使いながらも意識はハタハタにいってしまっている。しかも遭難した遺体を載せた船は、大漁を約束されるという地元の言い伝えを信じ、村人たちは我先に父親の遺体を探そうとしている残酷さを、俊一はどう感じたのか。たとえ父の死を信じざるを得ない状況でも、悲しみよりも深い怒りが先に来たに違いない。その捜索作業もハタハタが目に見えて押し寄せてくるまでで、いざそうなると皆それどころでなくなっている。建前としては死人がでているのに漁に出るわけには行かず、本音と現実は5年ぶりのハタハタを見逃すわけにもいかない。それを長い漁村生活で察していた俊一の母親はどのような気持ちだっただろう。しかも彼女は臨月という身重の体だ。身を切るような思いで皆のために、ハタハタをとってくださいと頭をさげた場面は、狭い村で生きる者の人生の重みを感じさせた。それなのに自分たちの食卓にはハタハタを一切載せない。その潔さが、彼女の強さも感じ取ることができる。
村全体がお祭り騒ぎの中、彼らの家族のみが取り残されて沈んでいる。また遅れて発見された父親の遺体の壮絶さがそれに拍車をかけている。漁を再開できたのは俊一の母親の機転と好意なのだからもっと皆に感謝されてもよい家族なのに、その大黒柱が凄まじい遺体で発見されるという救いようのない終わり方が、この物語の暗さと重さを加速させている。
しかし臨月の母親から生まれた乳飲み子が乳を吸う「健康的」な音だけが、唯一暗い家族に差し込んだ光明のような、強く生きていくためのよすがのような、そのようなものを感じさせた。
暗く重いながらも、根底にある詩的な色の美しさ
物語全てが誰も救われず報われない話ばかりなのだけど、それぞれに重々しいながらも鮮やかな色彩の美しさがある。「羆」では権作を追いながら見る山々の紅葉や光子のあざ、「蘭鋳」は言うまでもないけれど、その魚たちの色。「軍鶏」は戦い傷ついた鳥たちの血や羽の色。「鳩」は長い距離を飛んで帰ってくる鳩たちが見たであろう景色、「ハタハタ」では、押し寄せてくる魚たちがきらめき泳ぐ様など、様々な色彩に満ち溢れている。その美しさは、映画とか映像とかと比べても遜色がない。
ただ暗いだけでなく、そういう切なげな美しさの描写があるのが吉村昭の文体なのかもしれない。
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