イノセント・ストーリーズという言葉がぴったりの物語 - 誕生日の子どもたちの感想

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誕生日の子どもたち

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イノセント・ストーリーズという言葉がぴったりの物語

4.54.5
文章力
4.5
ストーリー
4.5
キャラクター
4.5
設定
4.5
演出
4.5

目次

初めて読んだトルーマン・カポーティ

もともとトルーマン・カポーティという作家の名前は知っていたけれど、その小説は読んだことがなかった。なぜそれを手にとったかというと、村上春樹が翻訳していたからに他ならない。他の訳で読んだことがあり元々知っている小説を村上春樹が訳しているからという理由でもう一度読んだりしたことはあっても、読んだことのない外国の小説を村上春樹の翻訳で読んだことはなかった。村上春樹の小説は読みつくし、なにか新しいものはないかと色々模索しているときに、彼の翻訳している小説の分野に白羽の矢がたったという理由で私はこれを選んだ。
なので、私のトルーマン・カポーティの文章の印象と村上春樹のそれはかなり一致している。だからというわけでないけど、この「誕生日の子どもたち」はその年私が読んだ小説の中でのベスト5に入っている。
本の裏に書かれている「イノセント・ストーリーズ」。これ以上の言葉が見つからない。本当にイノセントという意味にふさわしい、そして壊れやすいもの、きれいなもの(タイトルの「誕生日の子どもたち」もその美しいものに入る)が全て詰まったような、そんなイメージの物語がここに詰まっている。
昔映画で「カポーティ」というのを観たことがあったけど、残念なことにさっぱり内容を覚えていない。フィリップ・シーモア・ホフマンが出ていた(彼は本当にこういう役がよく似合う。堕落した神父とか。冷血なギャングとか。亡くなってしまったのを今でも残念に思う数少ない俳優のひおもおもいおおとりだ)ことは覚えているのだけど、あとはまったく霧の中のようにぼんやりとしている。もし今観たらなにかをもし今観たら何かを思い出すかもしれない。

「誕生日の子どもたち」

この本には全部で6つの短編が収められている。タイトルにもなっているこの物語は、うらぶれた田舎町にやってきた洗練されながらも気取った女の子が主役で書かれている。このように年若い女の子が一人前のレディのように振舞うさまは、どうしても、サリンジャーの「エズミに捧ぐ-愛と汚辱のうちに」を思い出してしまう。あの話に出てくる女の子も確か12かそこらだったはずだけど、家の全ての責任を担って生きているような描写があり、必死で背伸びをしているような印象はあるのだけど、その女の子は間違いなく美しかった。この「誕生日の子どもたち」のミス・ボビットもいささか風変わりではあるけれど、力強く美しく、田舎に住む同じ年代の子どもたちを容赦なく惹きつけ、周りの女の子たちは表面上は嫌いながらも気になって仕方のない様子がよく描写されている。
特に、回りの男の子が黒人の女の子をいじめている時に、決して正義感ぶってそれを止めるのでなく、あくまでその行為は遅れた文化であるという指摘をするところが小気味よい。あの場面は好きな場面のひとつだ。

ミス・スックとバディーと呼ばれる“僕”との友情

この本には全部で6つの短編が収められているのだけど、その中の「感謝祭の客」「クリスマスの思い出」「あるクリスマス」は登場人物の世界が共通している。主人公である僕は、家庭の事情で田舎の家に預けられているのだけど、そこでの一番の親友は60代の女性だけだった。時に痛々しく、時には可愛らしく、そして時に頑ななほど純粋な彼女はその村から出たこともなく、その小さな世界のみで生きている。このミス・スック(“僕”が言うには独身のおばあさん)が作り上げている世界こそが、カポーティの求めて続けている世界なのではないかという気さえする。それほどにそれは生き生きと美しく、小さく壊れやすく、まるで箱庭のような完璧な世界だった。
カポーティの小説を読んだのはこれが初めてなので、彼がどのような文章を書き、その物語にはどのような特徴があるのかということは全く知らない。なのでこの小説を初めて読んだ時には衝撃を受けた。そしてその衝撃は今まで読んだことのなかった悔しさも入る。

一番好きな「クリスマスの思い出」

これほど美しく、純粋な物語はそうはないと思う。私はこの本に収められている6つの短編のうちこれが一番好きだ。むしろ、この話ばかり読んでいるといっても過言ではない。
ミス・スックが「フルーツケーキの季節が来たよ!」と叫ぶ。そして、その季節が来たということが分かった判断材料がいい。「庁舎の鐘の響きがきりっとしてひやっこかったもの」。この気持ちはとてもわかる。夏が来た!と感じる時は、土とアスファルトの匂い(このあたりが都会ぽいのがなんだかいやだけども)だし、冬が来た!と言う時はそれこそ冷たい空気の湿度、夜景の透明具合などそれぞれ“季節の匂い”というものを持っていると思う。それが彼女は「鐘の響きがきりっとして」いることなのだろう。なんていい物語なのか。そしてそれから2人はフルーツケーキの材料を集めるのに奔走する。その描写も忙しいながらも楽しげで、特にミス・スックは何をするにも、どんな作業でも真剣そのもの。その表情が手に取るほどわかる描写の素晴らしさは、原本を読んでない以上、村上春樹らしい文章で書かれた翻訳だからなのかもしれない。
それほど丹精を込めて焼きあがった31本のフルーツケーキは、近隣に住む人に送られるのではなく、一度しか会ったことのない友人、もしくは一度もあったことのない人に送られるほうが多い。それもなんて素晴らしいことなのだろう。この場面も本当に好きなところだ。

訳者あとがきについて

最後に訳者村上春樹がカポーティについて語っている。彼がもともと抱いていたカポーティに対する畏敬の念のようなものがよくわかり、それほどの思いいれがあるからこそ、こういう翻訳もできるのだろうと感じた。カポーティの映画も何一つ覚えてない私が、カポーティの伝記など読めるわけもなく、こうやって好きな作家に噛み砕いて書いてもらえることは、新しい作家に出会うことのできる貴重な機会でもある。
村上春樹によると、カポーティ自身も遠縁の親戚の家に預けられ、スックという名前の友人がいたらしい。この辺の事情はほとんど「クリスマスの思い出」に書かれている通りで、それは自叙伝の趣ささえあるという。でもそういういわば“前知識”的なものは、この物語を味わうにはすこし邪魔になるかもしれない。個人的には作家や声優といった物語を作り出す側の、顔や行動といったものはあまり知りたくないからだ(エッセイをあまり読まないのもこういう理由もある)。
とはいえ、新しい作家トルーマン・カポーティを知ることが出来たのは、村上春樹が翻訳してくれたからだということに他ならない。だからこそこの作品に出会えたし、そしてまた他のカポーティも読もうと思えたのはありがたいことだと思う。

いい小説は心に綺麗なものを残す、ということ

サリンジャーの「フラニーとゾーイー」でフラニーが、「本当の詩人はそれを読み終わったあとに綺麗なものを残さなくちゃならない」という場面がある。それは本当にその通りで、それは詩でも小説でも映画でも同じことだと思う。そしてこの本も確実に読み終わったあとに心に綺麗なものを残す。そしてそれはしばらく余韻さえも残す。そういう小説はあまりない。
ミス・スックの言った言葉、ミス・ボビットの取った行動、集められたピーカンの実、リスのフライ、気に入った場面や言葉その全てを私は心の一番大事な奥の抽斗にひっそりとしまっておく。そしてそれは時々ひっぱり出されて、疲れた時や気の向いた時にほこりを払いつつ眺める。その抽斗に入っているものはもちろん、ひっぱり出しては眺める行為も私にとっては宝物だ。この小説はその抽斗に新たな宝物をたくさんつめることができた。そういうことはとてもうれしい。

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