まるで身を削って書かれたかのようなエッセイ - 頭の中がカユいんだの感想

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頭の中がカユいんだ

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まるで身を削って書かれたかのようなエッセイ

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文章力
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ストーリー
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キャラクター
4.0
設定
4.0
演出
4.0

目次

激しく壮絶な文章で横殴りにされるかのような始まり方

これはエッセイの形をとって、中島らもの印刷会社でのサラリーマン時代や広告代理店時代やがメインに書かれている。そこに書かれている状況は「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」や「アマニタ・パンセリナ」にもよく出ている。「アマニタ・パンセリナ」に出てきていたスプーンで手首を切ろうとしていた睡眠薬中毒のSくんは、この「頭の中がカユいんだ」が始まってすぐに登場する鈴木くんに違いない。彼はあれほどのひどい中毒者だったのに、パリやスペインに放浪しにいっている。生きるパワーがすごい人だと思う。
そういった“ああ、この人も前でていたな”とか“この場面覚えてる”とか色々楽しめる本ではあるのだけど、それ以上に、この本の文章は強烈すぎる。何か原稿用紙に叩きつけて書いたような、それこそ違う世界から血を使って書かれたような、そのような壮絶さが所々に感じられる。確実に薬(この場合は睡眠薬らしいが)の力によってあちら側にいっていることを感じるのは当たり前なのだけど、それ以上に、何かしら啓示めいたような印象さえ感じられる。村上龍のように意図的に読点なしで書かれた文章も息が苦しくなってしまう効果があり、その小説のエッセンスにはなっている。だけど中島らものそれはそうではなく、明らかにその時点で何か別のものを見ているような、そのような苦しさと酩酊感が感じられる。こういう壮絶(と言っていいのかわからないけれど、それ以外に言葉が思いつかない)な文章を読んだことは初めてだった。冒頭からこのような激しい始まり方をするので、エッセイだと思って軽く読み始めると頭にパンチをくらう羽目になる。

サラリーマン時代

「アマニタ・パンセリナ」を読んでいると、この人はちゃんと働けていたのだろうかという気になってしまう。実際この本の中では薬とアルコールの描写ばかりで、働いていたことにはあまり触れていない。なので今回読んだこのエッセイが、そのミッシングリンクを埋めたような形になっているかもしれない。かなりサラリーマン時代(コピーライター時代を含め)が詳しく書かれている。
印刷会社に勤めていたくだりは興味深かった。ありとあらゆる知識を半年かそこらで覚えこみ、いつどこで何を質問されてもいいようにしたところとか、上司のモミイさんの話とか。結構普通(よりも努力をしながら)サラリーマンをやってたんだということに何か感慨というか、彼の不器用さを感じた。それでもただのサラリーマンがしないような体験をしているところも、なにか中島らもらしいけど。
クェ・ジュ島に行った時の話はなにか切ない。中島らもの小説(エッセイも含め)なにかこのように切なく甘い話に当たることが時々ある。彼は薬だのお酒だの色々ないわゆる“悪いもの”に取り巻かれていながらも、その核には人よりも壊れやすく傷つきやすい何かを抱えている。その“柔らかい部分”がこのような文章を書かせるのもしれない。特に女性に対しては、優しすぎるほど繊細すぎる文章が時々ある。この話もそういうところがあった(ラストはともかく)。なにかしんみりしてしまう話だった。

家出をしてからの話

このエッセイは何か理由があっていきなり家出をするところから始まる。そのあたりの文章は本当に身を切って書かれたような感じがするのだけど、なんとなく話の勢いが収まるところに収まり、荒々しいながらも流れていくと、そこにはなんとなく自由といったものが感じられる。この場合誰からも邪魔されず、守衛のパトロールを逃れ会社に泊まることに成功し、夜明けまでの何時間かを自分のためだけのものとして確保できた場面がある。この瞬間どれほどの自由感を感じたのか想像するとちょっと楽しい。余談だけど、映画「ザ・エージェント」でトム・クルーズが大きな契約を確保できて車の中で大声で歌うシーンがある。「I’m freeee!」と絶叫するあの開放感の演技は素晴らしかった。私も時々そういう時はそう歌ってしまう、私が自由を感じた時の代名詞的なシーンである。それと同じくらいの自由感があの瞬間確かにあった。
結局なぜ家出をしたのかはわからない。作品をひねりだすためのカンヅメという意味合いの家出なのか、自分を清浄化するための家出なのかわからないけど、この行動が彼にとってプラスに働いたのであろうことは言うまでもない。

メタファーとしてでなく、リアルであるということ

このエッセイにはたくさんの意味のわからない言葉の羅列がある。律儀に読んでいくと目が回るような気さえする文章である。それに加え、夢で見たのかよくわからない物語が間に挿しはさまれ、少し軽い吐き気のようなものを感じてしまった。でもこれは決してマイナスではない。文章を読んでそのように体が影響を受けるということは、私にとっては歓迎すべき嬉しいことであるからだ。そういう話ではやはり羊を数える話が一番だと思う。羊が石英に変わってしまっていたくだりなどは、まるでミニシアター系の映画を観ているようで個人的にはかなり好みである。ただこういった物語が中島らもの場合、比喩でもメタファーでもなく、実際に自分で見たこと(夢であれ幻覚であれ)ということがその物語に重さを添えている。だからこそ、読み手に吐き気を催させるほどの影響があるのだと思う。そういう意味で、このエッセイはその辺の小説を読む以上の読み応えと、重い読後感を読み手に残す。

エッセイという危険な形

大体エッセイというものは、相当面白くないと面白くないものである。読み手はそこに作家(特にエッセイを読むくらいなのだからお気に入りといってもいいと思う)の秀でた感受性とか何気ない文章にみせる言葉選びのセンスとか、そういったその作家らしさを読み取ろうとしてしまう。そしてそれを気軽に感じることがエッセイの魅力だと思うけれど、普通の人の日記とそう代わらない内容であることが結構多い。ただただ旅先のことを書かれたり、若いときのことをだらだら書かれたりしてしまうとほとんどの確率でげんなりしてしまい、読む気がなくなってしまう。エッセイとはそのような危険をはらんだ形だと思う。
だけど中島らもの作品はそういったエッセイの形をとるものが多いのにもかかわらずかなり読ませる。その理由は、その客観的な文体となかなか人のしない経験からだと思っていた。だけど今回のこの「頭の中がカユいんだ」は、そのきっぱりと特徴的だった客観的文章に何か彼自身の魂が込められているような気がしてならない。だからこそ少し他の作品と違った印象を受けた。

最後に書かれていたこと

このエッセイの、いわゆる“あとがき”にあたる部分に、このエッセイの肝と感じるくらいのことを彼は書いている。読み終えた時の想像どおり、彼はこのエッセイを薬(睡眠薬)とアルコールの力で書き上げている。その書くスピードたるや、相当なものだ。一日目で50枚ということは、原稿用紙400字詰めとして20000字だから恐れ入る。ましてや2日目は70枚だから計算するまでもない。しかしそのスピードはそれらによって与えられたものかもしれないけど、その世界の基礎は確実に中島らものものだ。彼だからこそつむぎ出せた文章に他ならない。
印象的な文章がある。短く簡単に書くと、「ラリリながら書いたものは、世界によく似ている。美しく醜く、頭の中のかゆみのように永遠にそれを掻くことができない。そんなところが僕は好きなのだ」。この文章は、百万言の言葉より、どんな描写より、これ以上のものはないと思う。賛否はあるのかもしれないし、私はそれこそ「ラリった」ことはないのだけど、こんな文章を書ける才能のすごさは分かる。だからこそ、彼の文章はエッセイにこそ真実を感じるのかもしれない。

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