小麦粉の中にあるリアリティーを綴った小説
他とは趣の違う、村上春樹が人から聞いたとされる話
この「回転木馬のデッド・ヒート」は、村上春樹が人から聞いた話を、なるべくその雰囲気を壊さないように文章にしたと“はじめに”に書いてある。私は個人的には小説の“前書き”や“後書き”はあまり好きではないし、それほど重要視もしていない。早くその小説を読みたいときは読み飛ばしてしまうことさえある。それをしないのは村上春樹やスティーブン・キングのような、私がいわば信頼している作家だけかもしれない(皮肉なことに彼らはそれほど“前書き”などを重要視していない)。彼らの書く“前書き”(この場合はこの“はじめに”と同意ということにする)はすでに物語が始まっている予感がするし、そこには何かしら見過ごしてはいけないものが潜んでいるような気さえするからだ。なのでこの小説に取り掛かる前にもきちんとこの“はじめに”は読んだのだけど、それによるとこの「回転木馬のデッド・ヒート」は人から聞いた話が彼の心に澱のように残り、それを掬い取ってこの本が出来たとのことだった。だからこの小説は短編の形をとりながら、それぞれの主人公はその話し手であり、聞き手は村上春樹となる。それはなかなか他の小説とは趣の違った感じがして、この本はとても好きな短編集のひとつだ。
こういう形の小説というと、「東京奇譚集」を思い浮かべる。「回転木馬のデッド・ヒート」が人からの話ならば、この「東京奇譚集」は村上春樹自身が体験した不思議な話を集めたものだからだ。そういう意味ではこの2冊は対照的ながらも対をなすような意味合いになるのかもしれない。
この「回転木馬のデッド・ヒート」にはそうした物語が全部で9つ収められている。そしてその全ての話は村上春樹のフィルターを通すことによってその独特の世界観をまとい、世に出て来ている。
レーダーホーゼン
私はこの言葉をこの小説で初めて知った。外国人にしか似合わないようなあの中途半端な丈の半ズボンのことだけれど、この話はそれにまつわる一見理不尽ながらも、限りなく理解できる話である。この話が分かるのは男性女性関係ないと思う。それでも私はこの話に深く感情移入してしまった。物事の本筋と関係ないところで何かさっぱり片付いてしまうと、全てが片付いてしまったような気がして、体がものすごく綺麗になったような身軽になったような気がするときがある。簡単に言うと“憑き物が落ちた”とでも言うのか。しかも自分で何もかもできることに気付いて世界は美しく、厄介な悩み事ははるか彼方となると、この主人公の彼女が離婚を決意した気持ちが分かるような気がする。別に他に好きな人が出来たわけでもない(こういう展開があるとこう考える人のなんと多いことか!)けれど、全てを捨ててもいいと思える瞬間に出会えた人はこの話に深く共感できると思う。
この話は孤独な女性が旅先で自立を覚えたというだけの話ではない。話にもあるように、ポイントはレーダーホーゼンにある。これを来た男性があまりにも夫に似ていたこと、そしてレーダーホーゼンのあの朴訥というか、泥臭いといってもいいような田舎感とか、そういうものが夫への憎悪を気付かせたのかもしれない。それは人によっては、レーダーホーゼンであり、食べる時の姿勢であり、気に入らない香水であるのだろう。
ちなみに私はレーダーホーゼンをそれほど嫌いではない。しかしあれは日本人には似合わないとは思う。
プールサイド
この話の何がそれほど心を捉えるのかは分からないが、初めて読んだ時から心に楔のように残った文章がある。「彼は35歳の春にして人生の折り返し点を曲がろうと決心した」というところだ。前後の文脈は省くが、彼は自分の人生を70年と仮定して、35歳の誕生日を人生の折り返し点だと自ら決めたことということが大事なところだ。
この話を読んだのはいつだったか明確には覚えていないけれど、35歳にはなっていなかったと思う。そしてそのように自らの人生のターニングポイントを自ら決めるという概念がなかったので、それはとても私の心に残った。私にとってはいつだろうと考えた挙句、人生80年として40才を私の折り返し点だと決めた記憶がある。かといって彼のようにそれからの人生のために自らを磨き、恋人を作ったわけではない。それでもそのような意識はあるのとないのとでは雲泥の違いだと思う。少なくとも私はこの小説のおかげで、40才を人生の折り返し点だと思い曲がることができた。それは私にとっては数少ない、人に誇れることだ(もちろん誰にも言わないのだけど)。村上春樹の小説はよくこのように私の人生に彩りを添えてくれる。それは時々小説を読む以上に価値のあることなのかもしれない。
余談だけど、この話のせいで(おかげで?)アイロンをかけるたびにビリー・ジョエルが浮かぶ。アイロンをかける時の匂いとビリー・ジョエルがもう切り離せなくなってしまっていて、ここで涙を流せたいいのにと思うこともある。
嘔吐1979
個人的にはこの話と「レーダーホーゼン」がこの「回転木馬のデッド・ヒート」の中で一番好きだ。これらの話を読みたいがためにこの本を開くといっても過言ではない。この「嘔吐1979」はいきなり始まった正体不明の嘔吐の話なのだけど、もちろんそれにグロテスクさは一切ない。そしてなぜそうなるのかさえわからない。話を読み進めていっても、謎の電話以外に思いつく原因もないし(主人公のいささか奔放な女性関係はこの際置いておいて)、開き直って新手の理想的なダイエットと考えて日々を過ごすことを決めるのだけど、その理由は最後までわからない。そして嘔吐は突然終わる。物語の初めから終わりまでがまったくなんの解決も進展もしていないのに、私はこの話が大好きだ。
村上春樹の短編ではこういった、どうしてそうなったのかある現象に追われるまま、話が終わるというパターンは結構ある。「眠り」もそうだし(この物語のおかげで私は「アンナ・カレーニナ」を読むことができた。)、「パン屋再襲撃」では異常な飢餓感、ありとあらゆる男に理不尽に犯されてきた加納クレタと色々ある。その全ての物語が私は大好きなので、これは個人的傾向といってもいいのかもしれない。理由は分からないのだけれど、こういった話にはひどく惹かれる。
あとこの「回転木馬のデッド・ヒート」にはもうひとつ嘔吐をモチーフにした話がある。それは「野球場」という話で、これも好きなのだけど、これは作家志望の男性が送ってきた物語がそうであったとという、いわば劇中劇のような形で出てくる(これ以来蟹を食べることがためらわれるといった繊細な後日談があればいいのだけど、残念なところそういうものは一切ない)。この話も妙に印象的で、この「野球場」という話が好きなのもここを読みたいからという理由に他ならない。
もうひとつ。私は日記をつけるという習慣を続けることのできない凡百の人間だけど、諦める時に時々この「嘔吐1979」の最初の文章を思い出す。それはやはり「稀有な能力」なのだと。
この短編集が持つ不思議なリアリティー
それぞれが人から聞いた話だから実際に起こったことだとしても、ここには何か不思議なリアリティーを感じる。不思議な出会いの「タクシーに乗った男」や、並外れてニッチな能力の「雨やどり」など、時にはスーパーナチュラルな何かを感じさせる物語さえある。にもかかわらずそこには確かにリアリティーが息づいている。そこは長編でも短編でも村上春樹の織り成す文章の魅力だと思う。
この小説の中に出てきた、一番印象的な言葉がある(それが“はじめに”にある太っ腹さ加減!)。
「パン屋のリアリティーはパンの中に存在するのであって、小麦粉の中にあるわけではない。」
小説のリアリティーはパンにあり、この本のリアリティーは小麦粉にあるのかもしれない。どこにあるにせよ、リアリティーをきちんと感じることのできる小説だった。
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