久しぶりに出会う村上春樹の世界 - 女のいない男たちの感想

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女のいない男たち

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久しぶりに出会う村上春樹の世界

3.53.5
文章力
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ストーリー
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キャラクター
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設定
3.0
演出
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目次

前短編集「東京奇譚集」との違い

私は中学の頃に読んだ「1973年のピンボール」で初めて村上春樹の作品に出会った。以来全ての小説は何度も読み返すようになった。彼の作品の魅力は長編だけでなく、短編にもたっぷりとつまっている。いくら短くてもそれぞれきちんとしたカラーや印象があり、色んなチョコレートの詰まった箱のような、どれを読んでもどこを読んでもいつもがっかりさせられることはなかった。この「女のいない男たち」は9年ぶりの短編集ということで、その前は「東京奇譚集」になる。それはとても気に入っている短編集なので、この作品も期待しながら読んだことを覚えている。
はっきり言ってしまうと、私は短編集というなら「東京奇譚集」の方が好みだ。「東京奇譚集」に収められている物語のどれを読んでもその物語の中に入り込むことができる。緻密な風景の描写に心を馳せることで現実から離れられるような、例えば何かしら怒りのようなものを抱えているときに読むとそれがリセットされてしまうくらい、別の世界に連れていってくれるものだった。そういった現実からの乖離ができるのが村上春樹の作品の魅力だったのだけど、今回この「女のいない男たち」にはそれがあまり感じられなかった。あまり入り込めない映画のような、ストーリーの途中でつい時計を見てしまうような、そんな感じだった。もちろんそれは私が年をとったせいなのかもしれないし、あまりにも昔を美化しすぎているだけなのかもしれない。
村上春樹の作品は時々急に「あれが読みたい」といった欲求がでてくる。そういう時にいつも読み返すのは、この作品でなくもっと古い作品ばかりとなっている。
とはいえ、決して悪いというわけではない。全ての物語には村上春樹らしい繊細な描写が多々あり、そういうところは大事に読み返したりもする。けれども読んだ後にいつも残る「きれいなもの」が今回は手に入れられなかった。

完璧な運転手である女性

もともと体質が運転に向いていないのかどうかはおいといて、確かに完璧な女性のドライバーを私も知らない。「慣れ」と「必要性」いうだけで乗っている人も多いと思う。もちろん運転が好きという女性もいるにはいると思うし(私は運転は好きなほうだ)、だからといってその運転が巧みだというわけでもない(そして私もその例にもれない)。その例を覆したのがこの短編にでてくる女性ドライバーだ。彼女の運転は的確で安全でメリハリがあり、読んでいてもその静かな運転を想像することができる。またその口数の少なさもいいドライバーとして加味されるポイントだと思う。その彼女が舞台俳優である家福を送り迎えする間に交わされる言葉が物語のベースになっているのだが、話す内容は穏やかでないのにもかかわらず(運転手である彼女の生い立ちもそれなりのものだったし)、常に彼女の運転の静かさが伝わってきて、終始音のないような感じを受ける。それは主人公の話し方が淡々としているせいなのか、まるで車の下でアイドリングを続けるエンジン音のような、そんな印象を受けた。
あり得ない例えだと思うけど、この物語を一旦なんらかの形で数値化してそれを映像に置き換えてみたら、ずっと車が走っている映像になりそうな、そんな話だった。
そういえば村上春樹の別の作品で、道の説明をうまくできる女性に出会ったことはただ一人しかいないという話を読んだことがある。その人がどんな人だったのかちょっと忘れてしまったので、もう一度読んでみようと思う。

後天的に関西弁を覚えた男性

村上春樹自身関西出身のため、流暢な関西弁のはずだけれども、彼の作品でそれほど関西弁はたくさんでてこない。時々スパイスのような役割で挟み込まれる程度で、これほど関西弁を長く話す人物が主人公というのはあまりないような気がする。そもそも後天的に関西弁を覚えることができるかどうかはわからないけど(関東弁は後天的に覚えることは可能だと思う)、それを身に着けた東京出身の男性と関西出身ながら関東弁を話す男性の会話が、本来なら逆のしゃべり方なのにその上その気質(関西人と関東人といったような)さえも入れ替えてしまっている様は新鮮だった。だけども、キーとなる恋人の想像がどうしてもあまりできなかった。このような変わり者といって真っ先に思いつくのは「ノルウェイの森」の永沢さんで、立ち位置としたらその恋人のハツミさんのような役割なのだろうかと思ったけれど、どうしてもそれもしっくりこない。それもそもそも、この後天的に関西弁を覚えたという木樽という男の魅力があまり見えてこないところにあるのかもしれない。それ以外に存在感を示すものもあまりないし、自分の恋人を友人に差し出そうとする流れも村上春樹の作品ではありがちなのだけど(永沢さんもハツミさんをワタナベに託そうとするシーンがある)、どうしてもそこに至る気持ちが見えてこないところがなんとなく消化不良なところだと思う。彼は短編を時々手直しして長編につむぎ直すことがあるけど(もしかしてその逆なのかもしれないけど)、これは長編は無理でも中篇程度でもう一度読んでみたいと思う。

千夜一夜物語になぞらえた物語

私は「女のいない男たち」の中ではこれが一番好きだ。
この物語の主人公羽原はなぜか陸の孤島に閉じ込められていて、そこに通ってくる一人の女性の話で物語は進んでいく。自らの命をかけて王に物語を話すシェエラザードになぞらえて、彼は彼女をそう呼ぶ。彼女は実際には命もなにもかかっていないのだけど、その話しぶりは見事で、彼女の話す物語は様々な色合いを見せて、ただ話しがうまいというだけでなく相手にその世界を想像させる達人であることが感じられる。またその話も突拍子もないものでも真実味があり、気がつけば羽原と同じように横に並んで、一心に彼女の話を聞いているような気にさせられる。
特に高校時代の好きな男性の家に忍び込む話は手に汗を握るようだった。あの思春期独特の生々しさが強烈に感じられて、こちらが少し恥ずかしくなるほどの描写だけど、どうしても読み手はシェエラザードのほうに感情移入してしまう。それこそが彼女の話が巧みだという証拠なのだと思う。最後シェエラザードにじらされた「看護学校2年の時の話」は実に聞いてみたい。ここで羽原と完全に同じ気持ちにさせられたところも心憎い。

他の村上春樹作品との違い

彼の書く作品は登場人物の名前の特徴があまりなかったように思う。何度も登場する綿谷昇や、ワタナベ、メイなど、どちらかというと記号的なイメージでつけられているような印象があったのだけど、今回の短編集にでてくる登場人物の名前はすべて特徴がありすぎる。舞台俳優の家福、後天的に関西弁を身につけた木樽、恋煩いの結果命を絶った渡会、シェエラザードの羽原、バーを営む木野(これは唯一普通か)、最後のタイトルになっている「女のいない男たち」の主人公には名前はなかった。これら全ての人々の名前が多少なりとも気になりすぎて、物語を想像により映像化するのに邪魔になってしまったように思う。(ちなみにここで出てきた名前をアナグラムにして入れ替えたりして遊んでみたのだけど、いくつかの単語を見つけただけでなにも法則性を発見できなかった。)またこれは前の長編「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」や「1Q84」でも感じた違和感でもある。
あと、彼の書く料理の描写も魅力のひとつでもある。料理を作るところも食べるところも、ビールを飲んだりウィスキーを飲んだり、そのような描写の後は決まって同じようなものが食べたくなったりした(今思いつくのは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の太った女の子の作るサンドイッチ)。けれども、今回のこの作品にはそのようなおいしそうな描写があまりなく、少し残念な思いがした。ジブリ映画の料理の描写には定評があるけれども、もしその映画に料理がひとつもでてこなかったら残念な思いがするのと、よく似ていると思う。
もしかしたらこの作品も時間がたてば、あれを読みたい!という欲求が急に来るのかもしれないが、今のところはそれはなさそうである。

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