物語にしか生きられない人間 - 生きるとは、自分の物語をつくることの感想

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生きるとは、自分の物語をつくること

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文章力
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ストーリー
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物語にしか生きられない人間

4.54.5
文章力
5.0
ストーリー
4.0
キャラクター
4.5
設定
4.0
演出
4.0

目次

物語を作る意味

対談の中で、普通に生きている人も物語を作っていると言われていて、でも、ぴんとこない人が多いと思う。物語を作るというと、作家などが創造的にすることだと思われるからだ。そんな芸当は自分にできないと思うかもしれないが、逆にできないと、人は一歩も踏みだすことができない。たとえば、人が一歩踏みだすとき、着地点の床は動くことなく、そこにあって、自分の体重を支えてくれるものと疑わない。この世界にあって、床はそういうものだという想像をする、というより、決めつけるわけだ。その床がどうなっているか、検証したり実験して確かめたりしない以上は、分からない。床がぬけるかもしれないし、足が飲み込まれてしまうかもしれない。それが分からないままでは、踏みだせないし、かといって、一歩一歩足を出すたびに、着地点の床を調べていたら、きりがない。だから、根拠なく床は大丈夫と思いこみ、いちいち調べる手間を省いて、不安を覚えないようにして、足を踏みだすのだ。

歩くだけでなく、人はあらゆることを、根拠なく信じている。人に対してもそうだろう。話せば気持ちは通じるし、意味もなく無礼やひどいことをしないと思っている。話しても鼻で笑われ理解してくれない、訳もわからず刃物をつきつけてくることもあると思えば、人が恐くなる。一歩踏みだしたら、奈落に落ちるかもしれない、人に話しかけたら、殴られるかもしれないと、現実は本来、不確かなものだ。ただ、そう思ったら、一歩も動けなくなるので、一歩踏みだしても床が支えてくれる、人に話しかけたら親切にしてくれると、自分が動きやすくするために、都合よく世界を見る。その世界が、自分の作った物語なのだと思う。

都合よく書き換えられるようで、支障がでてくる物語

とはいえ、ほとんどの人は、目の前の世界が、自分に都合よく作った物語とは気づかずに、現実だと思い込んでいる。生きるのに必要なこととはいえ、ときには自分に都合よく書き換えられない現実に直面することがある。たとえば本書の中であげられていた、オウム真理教の地下鉄サリン事件。被害にあった人のなかには、生きのこったことに罪悪感を覚える人もいたのだという。不可解な心理に思えるものの、おそらく、事件のことを自分に都合のいい物語に書き換えようとするのに、無理があるのだと思われる。サリンをまいて大勢の人に危害を加えようとする人がいること、そういうことを平気でできる気持ちを人が持っていること、また治安がいいはずの日本でテロが起こったこと、テロ集団のような宗教があることなど、現実をありのまま受けとめると、自分の見る世界は、これまでと違って、世にも恐ろしいものになる。事件後、地下鉄に乗れなくなったという人がいたというのも肯ける。ただ、生きていくのに、仕事に行くためには、地下鉄に乗れないのでは困る。だから、自分に言い聞かせる。サリンをまいた人には悪気はなかったし、本当の悪人ではない。洗脳されていただけで、したくてしたわけではない。すこし手違いがあっただけで、宗教自体恐いものではない。

サリン事件があったあと、なぜか、オウム真理教や信者をかばうような論調があったのも、恐い現実から、必死に目隠ししようとしての、ことだと思う。ただ、犯人はそんな悪い奴ではなかったと言われたら、亡くなったり負傷した人は怒るし、悲しむだろう。生きていくためには、犯人の悪行ぶりに目を瞑るしかないとはいえ、そうしたら、被害者は報われない。そうやって被害者の思いを踏みにじって、生きているから、罪悪感を覚えるということなのだろう。

都合よく書き換えすぎて、狂気をはらむ物語

そうやて生きていくためには、残酷な物語を作るものだが、まだ罪悪感を覚えるだけましだ。本書にでてくる、ドイツ人は、かつてユダヤ人を迫害したことを責められても罪悪感も覚えないという。曰く、ユダヤ人だったから、しかたなかったと。そう言いたくなる気持ちは分からないでもない。ユダヤ人をこれでもかと迫害した、残虐性や暴虐性を人が持っていることを認めてしまったら、誰もが恐く思えて、恐怖に耐えきれずに、自分のほうから殺してしまうかもしれない。それに、サリン事件とちがて、ドイツ人は完全な被害者ではない。保身や家族を守るために、迫害に加担していたから、そんな自分の罪深さ惨めさ情けなさを、いやというほど、思い知らされた。認めたら、自殺しかねない。だから、自分は、ユダヤ人が同じ人間と認められていない物語の中にいるのだと思いこむ。同じ人間でないなら、動物のように害獣として駆逐したり、食用として処理するように、傷つけたり殺したりするのは責められることでないし、不当なことでもない。また、自分や自分の家族のほうが、人間でない生き物より価値があるのだから、自分たちが生きるために、その命を犠牲にして別にもかまわないだろうと、思う。

過酷すぎる現実を受け入れたら、正気を失ってしまいそうで、恐いのかもしれないが、それにしたって、彼らの住む物語もまた狂気じみている。同じ人間を人間と思わない世界なのだから。これでは、ヒトラーの素質を受け継いでいるといっていいし、また同じ過ちを繰り返しそうに思える。

それでも、本人たちはそう思っていないし、ユダヤ人が人間でないとする物語を、リアルなものだと疑わない。傍からすれば、これ以上ないフィクションに思えるのに。人が小説を読んだり映画を観たりするとき、現実を忘れたり、逃避しているものと思う。でも、その現実と思っているもの自体、虚構だったりする。だったら、ふだんから、十分現実逃避しているのではないか。さらにどこに逃げようとしているのかと、あらためて考えてみたら、不思議に思えてならないのだった。

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