外付けの「らしい」にとらわれない発想 - とりかへばや、男と女の感想

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とりかへばや、男と女

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外付けの「らしい」にとらわれない発想

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4.0
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目次

現実的に恋愛や結婚を考える女性

サプリという、ドラマにもなった有名な漫画がある。ばりばりに働く女性が主人公なのだが、彼女が最後にした決断が、印象的だった。それは何故女性が、頑張って働くのか、との問いの、ひとつの答えにもなっている。どうせ、結婚したら会社辞めるし、子供ができたらまともに働けないのだから、そんなに頑張らなくてもいいのにと、思われがちで、結婚や子供を生むことに重きを置いている女性もいるが、そうでない女性もいる。かといって結婚したくなく、子供が欲しくないわけでもない。その両方を現実的なものとして、とらえているのだ。結婚したとして、男性が死ぬまで養ってくれるとは限らない、子供ができたからって、果たして可愛がり家庭を大事にしてくれるか保証はないと。そう不安になるのも、いろいろな場合を考えて備えておくのも、当たり前のように思えるが、それでも、いまだに結婚すれば安泰だと疑わない風潮は根強い。昔より、離婚率が高くなっているにも関わらずにだ。
というのも、現実的に考えていたら誰も結婚などできないからだろう。だから、結婚したら男性は当たり前のように養ってくれるものだし、子供ができたら自然と可愛がり守ってくれるものだと、信じこみ、なんなら、男性に危ない兆候があっても、見ないようにするのかもしれない。それだけ、あてにしている結婚に関する一般論は、先にあげた女性の現実的思考に比べたら、ひどくめでたいものに思える。のに、疑わない人があまりいないのは、男は家族を養い守るもの、女は養われ子供を育てるものとする固定観念を、まるで生まれてきたときから、定められた運命かのように思うからだろう。そう錯覚しやすくはあるが、あくまで考え方の一つでしかなく、本書では二分法的思考といっている。混沌に対して秩序を与えるために、物事を二分して捉えるという。光と闇、天と地、悪と善、そして男と女。男が男らしくあり、女が女らしくあるのは、生まれつきではない、のではないかと本書ではいっている。身体的特徴や子供を生める生めないの違いはあきらかであっても、内面の特徴や傾向は本質的なのでなく、体得していくものではないかと。社会的文化的にこうあるべきと示される、見本や手本のようなものを見習ったり真似したりして、男らしく女らしく「なる」というわけだ。

男らしい女らしいとはなんなのか

心臓などの内臓のように、自分に備わっているのでなく、ファッション雑誌を読んで猿真似するような男らしさ女らしさなんて、あてになるわけがない。そりゃあ、男らしい男が家庭を顧みずに浮気に走ったり、女らしい女が家事をしなかったり育児放棄したりするというもの。逆に言うと、人は性によって本来、生き方を縛られたり、制限されることがないといえる。欧米に比べ、日本では性の自由さがないように思えるが、かつて平安時代のころ、「とりかえばや」という物語が描かれたあたり、昔のほうが進歩的だったのではないかと思う。兄妹か、姉弟の、男女が違う性に成りすまし、それぞれ女が侍従として、男が姫として帝に仕えることになる話。平安時代に、こういう発想をする人がいたこと自体驚くが、女が侍従として女と結婚するは、男が姫として、あっさり正体を明かし他の姫と懇ろになるは、しかも最後には、元の性にもどって、支障なくすんなり溶けこむ上に、姫として侍従として、申し分ない位につくというから、性による弊害や壁をあまりに感じさせず、呆れるほどだ。本人らにあまり隠す意思がなさそうなのはもちろん、知った周りにしろ、頭がおかしいとか、気持ち悪いとか、糾弾したり軽蔑したりせず、あっさり受けいれるのが、またすごい。
とても現実的な話に思えないとはいえ、侍従を演じていた女の思考は、現代の現実的な女性と似ているところがある。子供を身ごもって、さすがに隠しきれずに、父親である中将と半ばかけおちのようなことをするのだが、中将はもう一人、他の姫のことも気にかけている。その様子を見て、今は自分に夢中になっているが、他に好きな人ができたら、自分のことを「珍しい女がいたよ」くらい話すのではないかと、彼女は白けてしまう。しかも向こうの姫も妊娠し、中将の気持ちがどっちつかずとあって、今更生きながらえてもとの思いが増し、子供を生んだら適当なときに死のうとまで思う。
すだれ越しに、顔もよく分からない相手と、恋の歌を交わしていたような時代の女性が、まあ、現代の女性に劣らず、なんて冷めているものやら。ただ、ひとつ違うのは、中将に見捨てられた場合を考えて、母子で暮らしていく決意や備えをするのでなく、子供を残して、死のうとしているところだろう。

昔のほうが精神的には自由だったかもしれない意外性

そりゃあ、時代背景がちがうし、平安時代にすれば、そういう仏教的感覚を持っているのが当たり前だったらしい。死を身近なものに感じ、早く「あの世」とつながりたがっていたという。生きていてこそすべてと考え、死を厭う現代の感覚とはかけはなれているが、それでもサプリの主人公も、とりかえばやの彼女も、ある共通点がある。相手の男性にすがっていないことだ。方や自立、方や死別と選択は違っても、辛く困難な自分の状況を、相手にどうにかしてもらおうとは思っていない。男性を頼るほうが面倒くさいからだと思う。子供ができた以上、男性には母子を守る責任や義務があるように思うが、現実、その使命を果たせるか疑わしい人もいる。たとえ、男性が家庭をかえりみなくなったとしても、なだめすかして本来の役割を担うよう、うながすのが、女性の役割なのかもしれない。言ってしまえば、見捨てられないよう、顔色を窺いご機嫌とりするわけで、それが「女らしさ」と言われるものではないだろうか。「女らしさ」に磨きをかければ、男性の心を離れないようにできるだろうが、絶対ではない。人の心は触れないし見えないものだから、その揺れや動きを制御するなんて、実際的には不可能だ。不可能なことでも、可能性に賭けて「女らしく」あろうとするのも生き方とはいえ、所詮、相手の気持ち次第なので、きっと徒労に終わる。だったら、男性を捕まえておくより、もっと他に、努力した分報われたり見返りがあることを、したほうが有意義だと思う。
とりかえばやの姫は、元の性にもどって、都に帰還すると共に、子供を置いていく決意をする。女であり、母性本能のある人間なら、子供と離れるなどできないように思えるが、作者は彼女が自分らしい生き方を選んだのだという。というのも、子は母親が育て守るもの、というのも生まれつき与えられた宿命なのではなく、社会の規範に習っている部分があるからだろう。現実には、母親がいなくても、他に育ててくれる人がいれば、子供は生きていけるのだ。それでも、母親に捨てられた子供はかわいそうに思えるかもしれないが、すくなくとも、とりかえばやの子供は母親を恨んでいないし、一度母親について聞いたきり、口を閉ざしている。周りもとやかくは言わない。今では考えられないこととはいえ、こんな物語が作られた時代のほうが、案外、人は自分らしく生きていられたのかもしれないと思うのだった。

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