手塚治虫「冬の時代」から復活の序章的作品 - きりひと讃歌の感想

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きりひと讃歌

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手塚治虫「冬の時代」から復活の序章的作品

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画力
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ストーリー
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キャラクター
4.0
設定
3.5
演出
3.5

目次

当時「冬の時代」だった手塚治虫

本作は1970年から1年半にわたって書かれた作品だ。本作を語るために当時の時代背景をまず確認しよう。

1968年に週刊少年ジャンプが創刊し、漫画界の流れは商業主義に移行しつつあった。漫画と商業主義の関係は「作品性」と「利益性」の関係と言い換えられる。一時期(80~90年代)の少年ジャンプの人気作品は「長く続けた方が金になる」という理由で、金箔のように薄いネタをたたいて伸ばして連載を続けるという愚行を当然のふるまいとしていた。ファンタジー、ギャグとして始まっても人気が出なければバトルものに路線変更するなども日常的に行った。これらの行為は作品性を殺し、「ここで終わっていれば傑作だったのにね」「面白そうなテーマだったのに気が付けばバトル漫画」という残念な作品が量産される。代表的な例は「北斗の拳」、「デスノート」だろう。前者はラオウ昇天で、後者はLの死で終わっていれば、今以上に歴史に残る傑作だったのに、と思う人は少なくないはずだ。「スラムダンク」「ヒカルの碁」のようにいくらかの延長はあったものの、終わり時を見誤らず、傑作として連載終了した作品もある。後世、「スラムダンク」、「ヒカルの碁」は感動の名作として語られるが「北斗の拳」は「当時流行っていたもの」と分類される可能性が高いだろう

巨匠手塚治虫すらこの商業性という悪魔に何度も踊らされている。本作と同時期の「どろろ」はキャラクターの知名度が高く今も愛されているが、ストーリー展開は時代物、妖怪もの、宝探しものなど迷走を繰り返しており、わずか3巻しかないのに全くまとまりがない。お粗末といってもいいくらいだ。これは当時の流行りに無理に乗ろうとした結果であるらしい。

またこの時期は「劇画」というジャンルが台頭し、「荒唐無稽なアイデア」で「子供に夢を与える」といった初期手塚作品は読者にとって新鮮味を失っていた。ビッグコミックなどの青年誌の登場もあり、「小説よりわかりやすい娯楽」「映画より手ごろな娯楽」として性的表現や暗さ、陰惨さも書かれるようになっていたのだ。 漫画の位置づけが変わり、「漫画の神様手塚治虫」も神様で居続けることが難しくなっていた。

劇画、商業性、大人も読める作品へのチャレンジ

「きりひと賛歌」に戻ろう。本作を書いた時期は手塚治虫の「低迷期」と呼ばれており、それは本人も認めている。更に「W3事件」なるトラブルによる講談社とのいさかいもあり、虫プロダクション倒産などあらゆる意味で手塚にとって厳しい時期だったようだ。

しかしその中で、本作をぶれがない良質な作品に仕上げた。まず評価したいのは数多い登場人物のそれぞれの苦悩、それぞれの決着をきっちりと書ききっている点だ。「どろろ」や「バンパイヤ」で見られる回収できずに終わってしまった前振りは本作にはなく、占部以外のキャラの顛末には読者はきちんとカタルシスを得られる。特にヘレンといずみが苦しみながらも前を向いて生きていく姿は何度読んでも感動的だ。前半から中盤の陰惨さを乗り越えて最後は「許す」「愛を分かち合う」「自分がやるべきことをやる」などプラス思考ですっきりと終わるところも良い。また前述の時代の変遷を意識して、医療業界の闇、権威との闘い、人種差別など社会的な要素を正面から扱い、性的表現も遠慮せずはっきりと書いており、大人が楽しめる作風を意識している。画風も劇画を意識して線描を増やし、コマ割りや心理描写などもそれ以前の作品とは異なり細かくしている。劇画にそのまま迎合するのではなく、自分なりのやり方を模索していたのだろう。これらは一つ一つは地味な戦いだったのだろうが、作品としてきちんとまとまっているところが流石だ。70年代の手塚治虫の復活は本作あっての事、と私は考えている。 

本作を経て70年代中盤完全復活!

本作以降に書く「ブラックジャック」、「三つ目がとおる」、「火の鳥」で完全復活する手塚治虫だが、本作にはその復活の片鱗が随所にみられる。

「ブラックジャック」との関連性は誰もがわかる医療をテーマとしている点だが、設備がなければ何もできない、死にゆく人を助けられない無力感など両作品に繰り返し出てくる「医療ってなんだ?」という問いかけがこの時点ではっきりと描かれている。結局それに答えはないのだが医者が不足している土地であれば異形の者でも受け入れられるという展開は、やっているのは人間なのでそこには苦悩が付きまとうが求められているのは医療行為であるという現実だ。竜ヶ浦がモンモウ病の原因追及に関しては醜い大人として描かれているのに、死を覚悟してからは医療そのものへの貢献を考えるところなども、医者という職業の奥の深さを表しているように思う。

「三つめがとおる」とは一見関連性が薄いようだが、ダークヒーローをてらいなく書くにあたり本作で描かれた「人間の闇」が結果的に実験になったのではないかと私は考えている。中盤の桐人よりも占部の登場が多いパートがそれにあたる。占部は善と悪の間で揺れ動く非常に魅力的なキャラとして描かれており、一見写楽とは全く違うキャラクターだが、額のバンソウコウ1枚で気のいい少年が殺人もいとわないダークヒーローになる、というところに類似性が見られる。占部は面白いキャラクターだっただけにその死が唐突なところが本作の数少ない残念な点だ。

「火の鳥」とは「人間ってなんだ?」という手塚治虫が求める永遠のテーマが共通している。「バンパイヤ」でも獣になる人間が描かれており主人公たちは差別されること恐れているが、実際に差別を受けるシーンはわずかだ。対して本作では主人公や主要人物がはっきりと侮蔑、あざけりの対象として描かれる。犬の雌とのシーンや靴を舐めろ、と指示されるシーン、ヘレンがキツネ女と呼ばれるシーン、縄や鎖で縛られ引きずり回されるシーンがこれでもかと描かれている。本人たちも「私は人間だ」と訴えながらも、自暴自棄に陥ったり死を選びそうにもなる。桐人とヘレンは時折現れる協力者によって一時的に助けられるがその協力者は常に死んでしまう。病気の苦しみは自分自身の苦しみであり、あきらめるのも立ち向かうのも自分なのだ、とある意味残酷な現実を突きつける。

終盤でモンモウ病が世界に認知されたことによって、彼らは社会に受け入れられるチャンスを得る。ヘレンは自分と同様に病気で苦しむ人の救いになる。桐人は医学で人を助ける。それぞれが自分にできることで世の中への貢献する道を選び人間としての自分を取り戻していく。言ってしまえばもともとやっていた職業に戻ったのだが、モンモウ病の苦難を抱える彼らは以前とは違う。異形の姿である苦しみは変わらずあるのだが、現在進行形で病気を抱える彼らこそができる救いがあるのだ。そして過去のいきさつを超えて桐人に会いに行くいずみ、占部の子を産み聖女として生きていくヘレン、二人は「許し」と「愛」を与える女神となった、と私は信じる。最後のシーンの余韻も心地よく、手塚治虫自身も苦悩を超えたからこそ本作を書くことができたのだ、とうなずく。「漫画の神様」の復活である。

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