体は換えてもいいんじゃない?
腹立つくらい普通に面白い
この漫画を読んだ第一の感想が、これである。無難……という言葉だとやや弱いが、特別に凄まじい何かがある漫画、というとちょっと違う感じがする。例えば進撃の巨人なんかは、絵やら台詞回しやらと色々と至らない中でも、とにかく圧倒的な演出と設定で一時代を築いて見せたわけだが、この幽麗塔という漫画はとにかく、完成度が高い。ミステリアスな導入、随所に盛り上がりを入れ込みながら、少しずつ話が明かされていく序中盤、綺麗なミスリード、意外な犯人、テスラ博士の伏線、終盤のもう一山場にアッと驚く丸部の目的と、本当にソツがない。かといって王道でもなく、明らかに刺激的なエッセンスを盛り込んだ物語展開など、「このようにできれば面白いけど、できたら世話ない」を完璧に履行しているから驚きだ。しかも綺麗に9巻完結、だらだらしない。お手上げだ、言うことないです、ごめんなさい。漫画に限らず物語の筋書きというのは、テーマ云々はさておいた部分の、ストーリーラインが肝だと思う。そこさえしっかりしていれば、例えいかに下らないテーマであっても、少なくとも話は面白かったということになる。この点において、この漫画は、今まで読んできたすべての漫画の中でもっとも完璧だったと思う。あげくにテーマもしっかりしているときたら、そりゃあ腹も立ってくる。ようするに嫉妬だ。この漫画の一巻一巻がほかの漫画と同じ値段なのはアンフェアだろう。詰まった内容も、とにもかくにも猫も杓子も丁寧だ。無難をさらに一歩引き上げた、「こうありたい漫画」だ。いやームカつく。筆者的には、登場キャラの顔が大体崩れているのが素敵だった。魅力的な顔の人物も、テツオにしろ丸部親子(?)にしろ、性格にしろ顔にしろ、どこかで歪んだものを見せる。それでも、かっこいいし、胸が熱くなるのだから、この漫画は本物だ。
最後の選択は、正しかった?
この漫画の佳境であり、それまで描いてきた鉄雄こと、麗子こと、玲こと、アキラこと……つまりはテツオの苦悩に思いもがけない、ひとつの決断が迫られる最終盤、幽麗塔編。すなわち、男の体を手に入れるという究極のコンプレックスブレイクのチャンスが彼には与えられたわけである。この時の丸部の正体の明かされ方や、その立場の見事なまでのテツオとのコントラストにクラクラきたのは置いておいて、脳移植を蹴ったことは正しかったのかと考えてみると……うん、当然正しい。危険だもん。そんな破れかぶれに万一求めて命を捨てては元も子もない。あんな時代で脳移植が成功してたまるかい!そんなわけで、哲学的な是非を問うまでもなく否である。おしまい。と、しかし、それではちょっとつまらない。というよりも、思考ゲームの上ではその答えは逃避でしかないのである。来る未来にあのようなことが可能だとして、その決断を下す事は是か否かを考えてみよう。作中でテツオが下した結論は、結局は自らの肉体の肯定であった。心と体、性の不一致を飲み込んで、それさえも自分の一部として受け入れていくことを決意していた。自分とは、そもそもこういう人間なのだと、そういうわけである。これは正しいかと言われれば、間違えていると言える人はいないだろう。トラウマや苦悩を乗り越えた、立派な決断だ。では、この漫画の言いたかったことというのは、「自らの運命を受け入れよ」ということなのか。自分の生まれ持った肉体をいじるなと、そういう風な意見書なのか。ぶっちゃけてしまうと、この漫画はニューハーフは間違えているのだと言っているのだろうか。これは違うと筆者は思う。結局のところ肉体というのは心が纏う一つの衣装である。それを自らの望むようなものへと変えることになんの間違いがあるというのか。しかし、この漫画でのテツオの決断もやはり正しい。そんな中であえてどちらが正しいのかと問うてみれば、自ずと答えは見えてくる。どっちでもいいだろう。決断の権利は常に自分にあり、決して単一の答えが正しいというわけではない。苦悩も全て、本人の個性に委ねられている。この物語において、それは明らかに重要な命題だ。あの時の決断は、あくまでもテツオの決断であって、世界の絶対的解答ではないだろう。この物語の登場人物たちはみな、どことなくねじれているが、しかし、ねじれていない人間などどこにもいない。ひとりひとり、悩みへの答えは違うのだ。
根本的に違うのかも
と、あくまでこの物語のテーマを肯定してみたが、実際問題、テツオの決断に関する登場人物たちの論旨は少しずれているように感じたのは筆者だけだろうか。テツオの最終的な決断に文句はない。だが、それに至るまでの葛藤には少し違和感を覚える。テツオを説得するタイチの言葉は、何かが確かにズレいていた。彼は、テツオがそのままの体でいることに意義をおいていた。その体でなければ、テツオはテツオではないとでもいう風な論調だった。……ん?趣旨違くない?脳の移植を前提に出しておいて、その結論はおかしいんではないか。人間の肉体と、心の性は時として一致しないことはよく知られている。それはつまりは、肉体と脳の間の微妙なギャップを示している。つまりは、心と体はそこそこの確率で性が一致する程度の関係性であり、自分とはあくまで心のことであると……そういうことが、一般に性同一性障害と呼ばれている人々を見て、下されるべき結論ではないか。また、「現状を受け入れる」という決断の真の意味とは、「外側を変えても仕方がない」という理解から生じるのだと、筆者は考えている。背が低い人は、背が高ければ幸せになれるだの、もっと綺麗であれば文句がなかっただの、その手の考え方はいつだって甘い。甘すぎる。自分の今に文句があるやつは、たいていどんな状況でも文句を言う。その文句にほだされて、どんどん外側を変えるのを放棄すること……それが今の自分を受け入れるということだろう。決して、「今の自分であることが、他の全ての選択肢よりも素晴らしい」という意味ではない。それでは何も変わらない。結局は、外面の状態に心の置き所を頼っているのだから、一緒じゃないか。テツオの決断が正しかった理由は、「女の体の方がいい」からでは絶対にない。その体は、彼に苦労を強いたのは事実だ。脳移植に対するあの問いへの、哲学的な真の解答というのは、つまりは、どっちでもいいと思うことなのだろう。この点においては、幽麗塔という漫画ははっきりと間違えていると思う。自らの肉体の肯定を、「より優れている」という感じでしか認識できなかったのは作者の思考の足らなさだ。現状を肯定することの意味を履き違えているのだと思う。何かにつけて完璧なこの漫画は、しかし、根本的なところで大きくズレてしまっているのだ。まぁ、それでもここまで面白いんだから、ストーリーって偉大である。憎らしい。
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