「大人の事情」に負けず、自発性が無いのに名作となった作品
連載開始時の「大人の事情」
本作開始前(1989年)は作者桂正和はヒーローやSFを扱うモノを書きたかったらしい。しかし、かの有名な少年ジャンプ編集者、鳥島和彦氏の意向で恋愛モノを書くこととなりこの「電影少女」がスタートした。つまり本作はある意味自発的ではない。むしろ恋愛を中心にすることが苦痛ですらあったようである。それなのに連載終了後20年の歳月を経て、今尚名作であり続けている。上記のいきさつはwikiや作者のインタビュー記事で容易に読めるので長くは書かない。本作がどのような苦難を乗り越え、どのように名作になったかを考える。
ここからは私の予測、考察である。
桂正和に恋愛ものを指示した編集は何を狙ったのだろう?初連載作品「ウイングマン」でもラブコメ、美少女戦隊モノの要素が強くあるが、本人はストイックなヒーローものが書きたかったらしく、これらも編集の意向であるという。本意ではないのにそれなりの結果を残した「ウイングマン」での成果をさらに伸ばす事を期待したのだろうか?この部分に興味を持ち、掘り下げてみたが、当時の鳥島氏のコメントなどは残念ながら拾えず。表紙であいやもえみが微笑む絵柄などからアイドルブームの影響を受けたものか、と考えても見たが本作開始時はアイドル冬の時代と言われていたようである。グループアイドルが流行しだすのは10年後、月に代わってお仕置きする美少女戦隊ものも本作より数年後の開始なので、時代に乗ったスタートではなかったことがわかる。新ジャンル開拓の狙いで桂氏を指名したのだとすれば、結果的にそれは大成功だったと言えるだろう。
本作を境に桂氏が描く女性の美しさは業界でもトップクラスとなり、現在でもその作風に影響を受けたと思われる作家は多い。その力をつけた桂氏の偉大さは言うまでもないが、彼を抜擢した鳥島氏の先見性も素晴らしいと言わざるを得ないだろう。
開始後の「大人の事情」
中盤から新たにビデオガールまいを登場させるあたりはジャンプの常套手段であるバトル要素の挿入で、これも連載していく上での事情だろう。人間ではないまいが戦闘能力が高いのは当然として、同時期に登場する夏美が普通の少女なのに異常に強いところなどは全体の作風からするとかなり違和感がある。もしこのままバトル要素を増やしていけば本作は名作になりえなかったかもしれない。しかし路線変更までには至らず、「バトル要素を入れる」という宿題をこなしたうえで、夏美はあいと洋太の関係を修復する役割にとどめ、本来の「2人の純愛」に話を戻し、彼女自身は病死して読者にカタルシスを与えている。作品としてはマイナスの可能性が高い要素をプラスに変えた離れ業ともいえるだろう。
「大人の事情」は内部のみから発現したわけではない。リアルな恋愛へのこだわりから、高校生が性に興味を持ち、そこに至る段階を何度も描く。しかしこれには社会からの圧力がかかる。さすがに少年誌であるため、結果的には性交には至らないのだが、かなりきわどい表現が多いため有害図書指定されてしまう。無論どれほどきわどい表現をするかが本来のテーマではない。しかし桂氏は望んでいなかった恋愛モノを書く上で、従来のような少年誌にありがちなラブコメは書きたくないという意思をリアルさで示した、という記述もある。とにかく桂氏はとことん描く。それを突き詰めていくうちに、中心人物もえみがレイプされる事件まで描かれる。連載中はこんな凄惨なシーンが必要なのか?と思ったが、今はこのシーンの必要性がわかる。ここではある種のリアル=純粋な心を持たないものが求める単なる性愛、を書いたのだ。それはまいの登場時にも描かれていた。ピュアな心をもつ洋太がビデオから出てきたあいを人間として受け入れたのに対し、そうではない俗人はまいを性愛の対象としか見ることができない。そのような悲しい現実を書いたうえで、あいと洋太にフォーカスを戻したとき、二人の純粋さが読者に示される。そしてクライマックスではそれまで執拗に書かれてきたリアルな性は全く描かれない。ビデオガールあいは消滅し、人間として蘇るというラストは、ディズニープリンセス映画のようにファンタジックだ。この瞬間のために過剰なリアルが書かれてきたのかもしれない。
こうしてこの作品は名作となった。
恋編は蛇足?
あい編終了後の恋編は、蛇足とも言われている。桂正和も明言はしていないが打ち切りであることを示唆しているので、少年ジャンプ特有の人気投票システムで評価を得られなかったのかもしれない。たしかにあい編がきわどい表現で男子の心を揺らし、また感動のクライマックスを書いた後でもあり、表現もキャラクターも比較的おとなしくなったように見える恋編は物足りなく映ったかもしれない。しかし短い連載期間で今度はあまり性的表現を絡ませず純愛を語った点、洋太とあいのその後が描かれている点で私はかなり好んで読み返している。
洋太にGOKURAKUが見えないシーンも印象深く、逆説的に「人生のごく限られた時間のみに存在する貴重な純粋さ」が強調される。
地味ではあったが、これがあっての電影少女と言えるかもしれない。
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