表現力の探検家、小川洋子 - 海の感想

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文章力
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表現力の探検家、小川洋子

3.53.5
文章力
4.5
ストーリー
2.5
キャラクター
2.0
設定
3.0
演出
4.5

目次

作品背景

本作は2001年から2006年までに書かれた小川洋子の短編集だ。寄稿誌、時期も特に統一性は無く、テーマの一環もないので純粋かつニュートラルに小川氏の短編を楽しむ、というスタイルで読むのが最適だと思われる。特記するとすれば「ひよこトラック」が2006年、「ガイド」が2001年発表で、それ以外は全て2004年の作品だ。2004年と言えば今や代表作となっている「博士の愛した数式」(発表は2003年)が本屋大賞と読売文学大賞を、「ブラフマンの埋葬」が泉鏡花文学賞を受賞している。1991年の芥川賞受賞で作家としては十分に著名な彼女だったが、特に本屋大賞というわかりやすい評価を受けたことと、「博士の愛した数式」のヒットで一気に一般社会に認識された年と言っていいだろう。「博士の愛した数式」と「薬指の標本」の映画がともに2006年に公開されており、製作の都合から考えてもオファーがあったのはこの近辺と思われる。その多忙な年の作品を中心とした短編集として読んでみるのもまた面白いだろう

いつまでも小説に謙虚な小川洋子

割と地味な印象の彼女だが、文学に対する真摯な姿勢と生真面目な雰囲気もあり、講演、対談、ラジオ出演などは結構多い。特に2006年の2本の映画発表以降メディア出演なども増えている。

テレビ出演などを機にタレント化する作家も多いが、彼女の文学への取り組み方は全く変わらないように見える。名のある賞を10以上も取っている2016年現在でも、エッセイ、コメント、ラジオ番組など、どの角度から見ても謙虚さは失われていない。「私なんか全然大したことないです」という姿勢が、一歩でも最良の文学へと向かって行こう、という志を表している。どれだけヒット作が出ようと、どれだけ大きな賞を受賞しようと、奢ることなく主軸を文筆から移すこともない。彼女には「駆け出しの作家」という形容が良く似合う。(1988年のデビューからの年数を考えるとかなり失礼な形容かもしれないが)

一方作品内容はどうだろう。ストーリー中心に大別すると「博士の愛した数式」を代表するような優しさがあふれる比較的わかりやすい作品と、「薬指の標本」のようなやや不気味な気配漂う不思議な世界を描く作品、という分け方になるだろう。しかし、ストーリーの殻を取り去って文章そのものに目を向けると、デビュー作の「揚羽蝶が壊れる時」以来一貫して描写力の向上に努めていることがわかる。

短編集「海」にもそのような作品が2編ある。「海」「バタフライ和文タイプ事務所」だ。ハートウォーミングな話は分かりやすいし、多方面で解説もされているので、その2編のみについて以下に読み解く。

「海」

「小さな弟」とか「死に真似」とかは何かの比喩だろうか、と考えてしまうかもしれない。実際に作者は何かの意味を込めているのかもしれないが、私は気にしない。前半は穏やかに、しかし中盤の小さな弟と二人きりになったあたりから不安を誘う文章が続く。何かが起こるのか、と読み進んでいくと鳴鱗琴の音の説明のところで私の中の「小川洋子センサー」が点滅する。「浮袋の脇に細長い隙間があって」から「主役はあくまでも風なんです。しかも海からの」までの「小さな弟」の少し長いセリフ、こここそがこの「海」のなかの小川洋子流の必殺パンチだ。しかしあまりにもさりげないため小川洋子センサーを持たない読者はパンチを打たれたとすら感じないかもしれない。小川洋子は圧倒的な展開とか激しい恐怖とかで相手をノックアウトするタイプの作家ではない。そのまさしく風のような表現で気が付いたら相手を涼しい気持ちにしたり、あるいは不安のさなかに取り残していく、というタイプだ。

パンチが見えなかった人のために解説すると、まず一つ一つの言葉が吟味されていてとても美しい。「飛び魚」「風の強弱」「弦の震え方」「鱗」「風」「海」などだ。その少し前に出てくる「べたべたした」コップが汚いモノを先に出しておく見せ球の役割をもっており、主人公も私もまんまとこのカウンター攻撃を喰らってしまう。そして口頭の説明のみの鳴鱗琴を見たいと思う。そもそもその不思議な楽器は本当にあるのだろうか、とも思うが主人公は箱を見ただけで満足したのかそれを開いたりはしない。私たち読者にはもうどうすることもできない。先ほどのパンチのキレを再確認し、恐るべし小川洋子の文章の冴え、と思うのみだ。

「バタフライ和文タイプ事務所」

これは「海」とは明らかに違う、主人公に何か危機が迫るかもしれないような不気味さではなく、官能的な不穏さだ。平たく言えば、男女関係と性描写を全く使わずどこまで官能的な表現が可能か、という小川洋子の挑戦かもしれない。こういう事に挑むこと自体が、彼女が凡庸な「お話作家」ではなく「文筆家」である証明だ。ただ「表現力」を武器に、糜爛の「糜」や睾丸の「睾」、「膣」といった活字そのものの形容と、その活字を扱うしぐさをどう表現できるか、を追求していく。そしてその取り組みは見事だ。誰もが「活字の形容」を通して淫靡な気持ちになるだろう。

そして最後に思いがけない小川洋子流必殺パンチが待っている。クライマックスで思わず声を上げてしまう主人公、このあとの2行ほどの表現だけで私は満足し溜飲を下げる。性描写なしに女性が高みに達したことを感じ、何処にも行きつかないかと思われた作品が美しく終わる。

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