2冠にふさわしい、小川洋子代表作
現代を支配するSNSより強い繋がり
2016年現在、日本の多くの人がスマートフォンを持ち、いろいろなSNSで繋がりを保っている。私はたまたま個人的なきっかけがあり、際限なく時間を奪っていくこのツールが面倒になったので半年ほど前に全てやめてしまった。自営業(&比較的自由業)で仕事をしているが、多くの場合PCのメールと電話で事足りるのを再認識し、自分の時間が大事にできている、と今は実感している。更に必要以上の「繋がり」は文章のプロを目指す自分にとって創造に専念する妨げになる、と知った。
そんな中でこの「博士の愛した数式」を数年ぶりに再読した。
作中で博士と「私」を純粋に結び付けているのは、お話の中盤まで「家政婦としての契約」のみである。「私」の側からすれば毎日記憶は積み上げられていき、博士に対する友愛も生まれるのだが、博士側が毎日リセットされるため、結果的に毎日彼女たちの関係もリセットされている。しかし、二人はプロフェッショナルの仕事を行う事で毎日リセットされる関係を即座に再構築できるのだ。博士が数学の天才である事は誰の目にも明らかだが、「私」もまた家政婦のプロだ。単に経験年数が長い、というだけではない。彼女にとっては唯一の生きる糧であり、幼児のころから積み上げた家事経験が彼女をプロ足らしめている。読売文学賞、本屋大賞の2冠を受賞し、新潮文庫売り上げの最速を記録した本作品、あらゆるところで語られているが、「私」のプロフェッショナル性について記述しているものはあまりないように思う。もちろん博士の数字にまつわる言動を受け入れることが出来たから、過去9人の家政婦がクレームでやめさせられたのに、「私」は楽しんで業務を続けることが出来た事は間違いない。しかしそれだけではない、理路整然としたことや物事に規則性を発見することを喜びとする博士が「私」の調理を観察するシーンが何度かある。つまり「私」の業務は博士の鑑賞に堪えるだけのプロの仕事なのだ。
人と人は記憶や過去を共有することで繋がり合う。当然のことだが、その当然が成り立たない中、二人は自分の中の得意なモノを通して会話している。
私も文章のプロを目指している人間として、このようにありたい。この作品はそういう気持ちを奮い立たせてくれる
見事な起承転結
本作がハッピーエンディングである事は周知の事実だが、起承転結の書き分けぶりもまた見事だ。
ゆるやかにスタートする冒頭部分、1ページ目に既に「√」記号を登場させる巧みさ、「私」、博士、息子、未亡人の主要キャラもわずか5ページで全員登場し、各人物と「私」との関係性も明確だ。そして何よりも、SFや学術系の小説で大事な、読者を置いてけぼりにせずに大事な理論をどのように組み込むかという問題にも、素数、友愛数、完全数など重要なツールを早めに説明することで対応している。
後半結構面倒な数式も出てくるが、極論で言えばこの3つさえ何となく理解できていれば、あとの数式の説明は飛ばしてもよい、という作者の意図が簡潔で丁寧な説明の中に垣間見える。オイラーの公式やフェルマーの最終定理などはお話の中で重要ではあるが、これらが登場するまで読んだ読者は既に物語に入りこんでおり、数式アレルギーな人でも、「良くわからないけどまあ博士が大事にしてる式なんだよね」とかるく流しつつゴールまでたどり着ける。むしろ序盤の「起」、「承」の部分に出てくる素数や完全数に対して「美しい」「神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字」などの表現が使われることにいかに無理なく慣れてもらうか、が作家の腕の見せ所だっただろう。
博士、「私」、息子の3人で緩やかに話が進んでいくかと思わせる中盤、タイガース観戦で予想外の変化球を見せておいて、直後に一旦契約解除というゲームセットを宣告される「転」の部分、それまでのゆったり感からの緩急の変化に読者側はただ呆然とする。
そして「結」に至る息子の行動で大きく揺さぶっておきながら、契約復帰、幸せな予感のパーティ準備。しかしパーティを始めようとした時のわずかなトラブルからの博士の状態の悪化で大きく悲劇に振れると見せかけるところも実に上手い。私もこの瞬間や数日中に博士の記憶の完全崩壊、または死が訪れるのではないか、と思った。パーティを始める前に「博士と過ごした最後の夜」などという表現をされれば誰でもそう思うだろう。
ところが、悲劇を予測しながら頁をめくると、意外にも静かに訪れる未亡人との和解、ゆるやかに流れる数年間、息子の素晴らしい成長、がさりげなくも丁寧に記述される。そして最後まで素数定理の美しさを語る博士を描き、彼の身体的苦しみは少しも語られない。それらの前フリもあって成長した息子が博士の肩を抱きよせるシーンでただ素直に泣ける。辛い最後を予想した読者に、さりげない余韻をもったハッピーエンディングは完璧な完投勝利としか言いようがない。
割とブラックな雰囲気や、暗い終わり方もある小川洋子の作品だけにこの結末には誰もが予想できなかっただろう。
小川洋子は作家になる動機として「アンネの日記」を読んだことをしばしば語っている。
アンネが書いた「わたしの望みは、死んでからもなお行きつづけること!」という文章に彼女はこの作品を持って十分に答えていると言えるだろう。
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