女性の感情、見抜かれた!心理描写にゾッと鳥肌、美醜の原点を妖しく描く『累』
美しいか、醜いか。この二つが支配する現実に似た世界
漫画を読んで、これほどまで現実に酷似していると感じたことはありません。美しい者と醜い者、その二通りの世界。皆、「人は見た目じゃない」と言うけれど、それが綺麗事だということは知っている。なのに、綺麗事だと口に出すことはタブー。それはどうしてなのか。誰も教えてくれない本当の現実、それを『累』は残酷にも突きつけます。
累は、「美しいということ、それは強いということ」だと言います。どんなに性格が悪くても、「その美しい顔の裏に、悪意を隠すことができるからずるい」と言います。漫画の世界も現実の世界も同じ。醜い者がほほえめば、「ニヤニヤした顔が気持ち悪い」。美しい者がほほえめば、「笑顔が可愛らしい」。醜い者が黙れば「暗くて陰気くさい」、美しい者が黙れば「ミステリアスでクール」。この理不尽で非道徳的な答えは一体何なのか。
『累』の面白さは、醜い者と美しい者、それぞれを冷静に分析しながら、情け容赦なく対照的に配置しているところにあると思います。くっきりする明暗、光と影。他の美醜を扱った漫画は、美醜の対比をオブラートに包む事を暗黙の了解としているのか、美と醜の境界線が非常に曖昧です。美の側が、なぜかメイクを落とせば醜になったり。反対に醜の側が、メイクや整形で美になってみたり。結局は、根本的な美醜の問題ではなく、メイクや整形をスキャンダラスに演出しているだけの事だと、『累』を読めば感じます。
醜い主人公、累。美と“演じること”への執念
本物の美しさ。それは、憧れでもなく、努力でもない。きっと、恐ろしいまでの執着心だと思います。美に執着する女性、それこそが累。累は“演じること”に対しては、唯一無二の天才。けれど、恐ろしい容姿のせいで、演じる場所を与えてもらうことができない。「ただ演じたい」、その為だけに美しい顔を必要としている。
『累』は、巷にあふれるシンデレラストーリーとは全く違います。地味な女性がメイクを施し大変身、理想の男性と出会い恋に落ちる。そんな安っぽい話とは比べ物にならないほど、一人の女性の人生を賭けた壮大でドラマティックな物語。私は、累の醜さの裏にある純粋なまでの美への固執、それはとても清らかなものに映るのです。
また、世の中にあふれる女性の美意識。「目が二重だったらいいのに」「もう少し痩せたい」「ハーフのような高い鼻が羨ましい」。こんなもの、累の執着の前ではどうってこともない。本気で執着している者は、軽はずみに「こんな容姿になりたい」だなんて口には出せないはずだから。累は決して、そういった自分勝手な希望を口にしない。あくまで、美はたった一つ、“演じること”に辿り着く手段。その為なら、他の女性の美を奪うこともいとわない。固い決意と揺るがない宿命に、累の芯の強さを垣間見たような気がして、この女性がどこまで突き進んでいくのか興味が湧きました。
そして、私はやっぱり口紅の力を使う瞬間が好き。この瞬間、累は誰よりも美しく、誰よりも朱い口紅が似合う。妖艶で綺麗で、したたかで儚くて。この時だけは、どんなに美しい女性も累にかなわない。まるで、地獄みたいな日常に、一本の蜘蛛の糸が垂らされたかのような…。その蜘蛛の糸を手繰り寄せ、舞台に降り立つ累。神々しいまでのオーラと美貌。神がかった美は、読んでいるこちらがビクッとさせられるほど。
だからこそ、『累』を読んでいると漫画であることを忘れてしまう。実際に、目の前には累という女性がいて、その女性の一生を舞台の客席で眺めているよう。私はただの客にしかすぎないけれど、可能であればこの先も見てみたい。最後まで、累という女性を見ていたい。心の底からそう思います。累という女優に魅了されてしまったのかもしれません。
おどろおどろしい絵が盛り上げる!今までにない奇妙な世界観
上手でもなく、繊細でもなく。『累』の絵には、うまく言い表せない変な魅力があります。どことなく昭和の時代を思わせる湿っぽさ、そして古っぽさ。適度な線の粗さは、おどろおどろしい朱の呪いに拍車をかけ、物語の盛り上がりに一役買っていると思います。また、女性が主人公の漫画は、えてして美化されていたり、小さくまとまっていたりと無難な方向にいきやすい。けれど、『累』の世界観に常識は通用せず、思いっきりしなやかだったり豪快だったり、濃かったり強かったりと、登場人物が自由に動き回る感覚が面白くあります。
そして、下手すればホラー漫画に傾きかねない物語の全体像を、絶妙なバランスで本格サスペンスに引き戻す巧妙な描写。また、最初から最後まで梅雨の時期に似たジメジメした湿度にも関わらず、陰鬱になりすぎないところも好印象です。ちゃんと、累や野菊の可愛らしい表情を覗くことができる。それが例え、ほんのわずかな時間でも、「累や野菊も普通の女の子なのだ」とほっとします。ただ、環境が二人を特殊な運命へと導いただけだったのだと。
一コマ一コマが心に響く『累』ですが、その中でも、ニナを失い野菊を求めてさまよう累の姿が印象的です。夜の闇、小虫が飛び交う街灯の下、「野菊…」と呟く場面。みすぼらしくて寂しくて悲しくて、でも“演じること”への未練を捨てきれなくて。本来の累を十分すぎるほど表現している名場面ではないでしょうか。また、姉と妹。対照的な容姿に生まれてきたとはいえ、お互いがお互いを死ぬほど必要としている。切っても切れない宿命という関係に神秘を感じずにはいられません。
この名場面を描くには、絶対にこの絵でないと。どこにも行き場所がない感情を、ドロドロと渦巻きながら描き出す現代人らしからぬ絵。表紙の色使いも独特の暗みで、漫画家の絵というより幽霊画の作家を思わせるような憂鬱な空気感。作者の感性も含めて、ますます『累』の行く末が心を離しません。
朱い口紅の秘密。累と野菊の結末はどうなるのか。
『累』を語る際に、欠かせない朱い口紅。これは、きっと魔法の口紅といった立ち位置ではない。口紅自体に力があるのではなく、その特殊な原料が力を発揮しているにすぎません。だからこそ、口紅そのものは至って普通の使用感で、おそらく「使っても永遠になくならない」類のものではないと考えられます。
では、累の口紅は使い続ければいつかなくなるのか?もしそうであれば、“演じること”への最終期限は刻々と迫ってきているのかもしれません。仮に、野菊がいなくなったとしても、今まで通り、累の顔となる美女は調達できる可能性が高い。でも、あの朱い口紅だけはどうしたって調達できない。口紅は累の母親である誘から受け継いだものだから、そんなに残量はない気もする。
そういえば、原料となる朱い石が屋敷にあった。あの石を原料として、次から次へと口紅が誕生するというパターンもあり得るけれど、それはアリなのか?私の予想では、朱い石と口紅の共通点に気がついた野菊が、累に“演じること”をやめさせる為、石を屋敷の断崖絶壁から捨てる。口紅は累の持つ1本しか存在しなくなる。累は口紅を使い切った後、“演じること”ができない世界に意味はないと自殺。野菊は、累が美にこだわった理由を知り、累の代わりに女優へ。そして、どこかの海辺へ流れ着いた朱い石。また、醜い女性が手を伸ばす。このような最後を迎えるのではないかと考えています。
累はおぞましい人間。でも、それと同時に人間らしくもあります。人間の持つ負の部分。それを、赤裸々にさらけ出してくれている。“演じること”というのは、舞台だけに限りません。人生、それすらも演じてしまうのが人間。自分を「美しく見せたい」「幸せに見せたい」、女性の欲望はおぞましいものです。誰が、累だけを責めることができるのか。全ての女性の中には累がいる。読んでいるうちに、自分の中の累がうずき出す。そんなゾクッと鳥肌が立つ感覚を愉しむことができる素晴らしい漫画です。
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