映画史に長く残る青春映画、サスペンス映画の金字塔ともいえる名作「太陽がいっぱい」 - 太陽がいっぱいの感想

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映画史に長く残る青春映画、サスペンス映画の金字塔ともいえる名作「太陽がいっぱい」

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映像
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脚本
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キャスト
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音楽
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演出
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この映画「太陽がいっぱい」は、原作がパトリシア・ハイスミスで、彼女の長編第一作がアルフレッド・ヒッチコックによって映画化された「見知らぬ乗客」で、1956年に「太陽がいっぱい」を発表しました。

このトム・リプリーを主人公とする小説は、"太陽がいっぱい"の後、"贋作"、"アメリカの友人"、"リプリーをまねた少年"、"死者と踊るリプリー"と計5部作とシリーズ化されました。 第3作目の"アメリカの友人"は、1977年に鬼才ヴィム・ヴェンダース監督によって、デニス・ホッパー主演にて映画化されています。

パトリシア・ハイスミスといえば、近年では映画「キャロル」の原作者としても有名な作家ですね。 アラン・ドロン演じるトム・リプリーという野望に燃える青年が、南フランスを舞台にして行なった無計画な殺人を描いた、倒叙形式のミステリーで、この小説を「禁じられた遊び」、「居酒屋」のフランスの名匠、ルネ・クレマン監督が映画化した映画史に長く残る青春映画、サスペンス映画の金字塔ともいうべき名作です。

パトリシア・ハイスミスの小説は、文章が巧緻で、サスペンスに満ち溢れていて、ストーリー性にも富んでいますが、少し才走り過ぎている上に、推理自体の骨格がどうも弱過ぎると思っています。 この彼女の原作を下敷きにして、"貧しく、育ちも悪く、劣等感にさいなまれている野心的な青年"の完全犯罪と、その破綻といった形で"青春映画の傑作"を撮ったのがルネ・クレマンで、原作のラストでは主人公のトム・リプリーはまんまと逃げて、続編の小説では裕福なフランス人と結婚したりして悠々自適の生活を謳歌しますが、この映画では、もう映画ファンなら、すでにご承知のように、ラストでの衝撃的で、鮮やかなドンデン返しとなり、原作と全く違ったラストにしていて、それが結果的にこの映画を成功させ、映画史に長く残る永遠の青春映画であり、サスペンス映画たらしめていると思います。

ストーリー自体は極めてシンプルです。 金持ちのアメリカ人青年がいる。 フィリップ(モーリス・ロネ)といい、彼は大金持ちの息子で、ローマを中心に南ヨーロッパで遊び呆けている。 彼にはマルジュ(マリー・ラフォレ)という恋人がいる。 このフィリップを、アメリカに連れ戻しに来た青年がトム・リプリー。 トムはフィリップのかつての友人で、彼をアメリカに連れ戻す事を彼の父親に依頼されて、ローマにやって来ます。 成功報酬は5万ドルという条件で------。

だが、フィリップは、トムをまるで召使いのように扱い、トムの目の前で、これみよがしにマルジュといちゃついたりします。 その内に、報償契約を打ち切るという通告がアメリカから届きます。 トムの胸に激しい怒りと嫉妬と屈辱感が渦巻き、それは、やがて殺意へと変質していきます。 フィリップを殺して、自分がフィリップになり澄まそうとする底意を秘めた殺意です。

これらのトム・リプリーという複雑で屈折した若者像を、アラン・ドロンは、"妖しく悪魔的な魅力を発散させ、フィリップに媚びるような上目遣いの仕草や、育ちの悪さを漂わせた、下卑た煙草の咥えかた、マルジュに対する自分の魅力を背伸びして、最大限に示そうとする時の流し目"など、計算高く、野心的な若者を鮮烈に演じ切っていて、ここに世紀の大スター、アラン・ドロンが誕生したのだと思います。

この映画の大成功の大半は、主人公のトムを演じたアラン・ドロンの功績だと思いますが、彼は幼い時に父親を失くし、孤独な少年時代を送った事は良く知られていて、母親の再婚相手にもなじめず、中等教育を終えると17歳で志願して軍隊に入隊し、インドシナ戦線に従軍した後、映画俳優になったという経歴の持ち主です。

典型的な二枚目俳優でありながら、アラン・ドロンには、何故かフランスの暗黒街との関係が常に取り沙汰され、政財界の暗部に絡むマルコヴィッチ事件で、殺人容疑を受けた事もありました。 研ぎ澄まされた、鋭利な刃物を思わせる彼の美貌の裏側には、実生活の上での犯罪組織との繋がりも指摘されている俳優ですが、そういった暗くて謎めいた部分が、アラン・ドロンという20世紀を代表する世紀の二枚目俳優の美貌に、独特の陰影と翳りを加え、この「太陽がいっぱい」での彼の演技に、妙なリアリティを与えているような気がします。

映画の冒頭に近いシーンに、映画史に残る名シーンとして名高い、この殺人計画の重要な伏線ともなる見事な描写があります。 フィリップの部屋へトムがだまって、ギターを持って入って来る。 数個のトランクが開け放しのまま放り出され、贅沢な衣類が散乱している。 ギターを放り出し、トランクの前にトムは座り込み、"素敵だ"と白い靴下を見つけて履いてみる。 床に寝転んで白い靴下を履いた足を真っすぐに上げてみる。 起き上がって、椅子に投げ出してあった上着を着て、ネクタイを締め、三面鏡の前に膝をついてにじり寄り、髪の毛をフィリップのように横に分け、額にかける。

フイリップの声を真似て、鏡の中の自分に向かって、僕のマルジュ、僕のアミ、僕の恋人と陶酔し切った表情になるトム----彼女は僕が愛している事を知っている。 鏡にキスして、マルジュへの恋は僕を盲目にする。そのように恍惚の表情をトムが浮かべている時に突然の鞭の音-------。 トムははっとして立ち上がる。手に鞭を持ったフィリップが入って来て、険しい表情でトムを睨む。 するとフィリップは命令するように、その服を脱げ!とトムに言うと、トムは額の髪を掻き揚げ、おずおずと、ふざけていたんだという名シーンです。

ここに描かれたフィリップとトムの関係が、この映画の全てを物語っています。 金持ちの残酷さの象徴としての鞭。 金持ちになりたいという、屈折した貧しい若者の変身願望と鏡に向かってキスをするナルシシズム-------。 ここでは、二人の間に友情というものが成り立つわけなどない事を簡潔に、また象徴的に描いていると思います。

尚、生涯、映画を愛してやまなかった映画の伝道師とも言うべき、映画評論家の淀川長治さんは、この有名なシーンというのは、監督のルネ・クレマンが、トムのフィリップへの複雑で屈折した"同性愛的な感情"を暗示するシーンとして演出していると、映画的文法から深読みして解釈されていましたが、それも、ある意味一つの見識だろうと思います。

トムは、やがてフィリップをヨット上で殺し、死体をロープで縛り、重しを付けて海へ捨てます。そして、トムはフィリップになり澄ますために、フィリップのサインの筆跡を真似ると共に、身分証明書の写真も貼り替えます。 その上、フィリップの友人が訪ねて来ると、この男を殺し、フィリップの仕業に見せかけます。 それだけにとどまらず、フィリップは、この友人を殺した事を悩んで自殺したかのように見せかけ、フィリップの遺書を偽造します。 トムの完全犯罪は、見事に成功したかのようにみえたのだが--------。

かつて、探偵作家の江戸川乱歩は、彼の"変身願望"というエッセイの中で、「人間は、あるがままの自分に満足せず、人間がいかに他人に化けるかという事に心を砕き、それが犯罪の動機に結びつきやすいか」とトリックの一つになると語っていましたが、「太陽がいっぱい」は、そのトリックを駆使して、大胆にストーリーテリングを進め、いわゆる"倒叙形式のミステリー"の傑作を作り上げたのだと思います。

そして、作品の主な舞台を海にした事も、この映画の成功の大きな要因になっているとも思います。 "青春の揺れ動く心をそのまま写し取ったかのような波"を、カメラは執拗にとらえていきます。 "希望と絶望、不安と期待、友情と憎悪"-------。 矛盾し、相反する二つのものが、激しくせめぎ合っている、野心的な若者の心の内側を正確に切り取ったかのように、カメラは荒々しく波立つ海を、克明に映し出します。 この映画の撮影監督は、今や伝説的な名カメラマンのアンリ・ドカエ。 「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー監督)のカメラマンですが、ヌーベル・ヴァーグの代表的なカメラマンを起用したあたりに、ルネ・クレマン監督の野心があったのだと思います。

ヌーベル・ヴァーグより一世代前に、すでに巨匠の地位にあったルネ・クレマンは、今更、若い監督たちに対抗意識を持つ必要もなかったとは思いますが、ヌーベル・ヴァーグに対する、彼なりの一種の挑戦状のつもりでこの映画を撮ったに違いありません。

そして、忘れてはならないのは、「ゴッドファーザー」(フランシス・F・コッポラ監督)でも有名な世界的な音楽家のニーノ・ロータによる、揺れ動く青春の"希望と絶望"、"不安と期待"、"友情と憎悪"を、哀愁を帯びた旋律で奏でるテーマ曲。 永遠に心に残る名曲として、このメロディを聴くたびに、永遠の青春像であるトム・リプリーの姿がアラン・ドロンの姿と二重写しになって、鮮やかに私の脳裏に甦って来ます。

そして、この映画の白眉とも言える、ラストの衝撃的で鮮烈なドンデン返しです。 トムが偽造したフィリップの遺書では、全財産は恋人だったマルジュに贈ると書かれています。 マルジュに接近したトムは、密かに愛の告白をします。 マルジュは、やがてトムの告白を受け入れます。 貧しい若者が、密かに夢みていた財産と美しい女は手に入った。 若者の頭上には、今、"太陽がいっぱい"輝いています。

まさしく、トムにとって人生最高の時を迎えようとしていました。 フィリップのヨットは売却される事になり、船体検査のため、陸に引き揚げられる事になります。みんなが見守る中で、スクリューに絡んだ長いロープが、ずるずると海面上に姿を現し、その先にはフィリップの死体が絡みついていた-----。 これからも、ずっと永遠に語り継がれるであろう、衝撃的なラストシーン------、見事の一語に尽きます。

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トランペットが奏でる最後のシーンは・・?、「太陽がいっぱい」我等青春の真只中の同世代の映画で、田舎の古びた映画館で見たが、その映像の美しさ、ストーリー展開の際どさ、そしてラストシ-ンのショッキングさ、どれを取っても感動の連続であったのが昨日のように思い出させるのです。 このような映画を見せ付けらたら、日本の映画もまだまだだな、というような印象を持ったのもたしかです。(尤も、其の後、テレビやDVDで何回も観ましたけど。)この頃は、音楽界は外国のポピュラー音楽、特にフレンチポップス(フランスの大衆曲)が大流行の真っ最中でもあり、その中でも異彩を放ったのが、映画・「太陽がいっぱい」のテーマソングであった。当時は、小生も映画と音楽は気狂いのように凝っていたので、脳裏に焼きついているのです。 日本でも御馴染みのルネ・クレマンやトランペット奏者のニニ・ロッソであるが、映画の中でも両者によるトランペット...この感想を読む

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