編年体の歴史記述とは異なった方法で、史実や人物像の相対性、客観性を保証するための試みとして書かれた、井上靖の長編歴史小説「後白河院」
史観という衣装をはぎ取ってみる時、歴史とはひどく孤独な、それでいて人間臭いものではないだろうか。
華やかな大義名分の陰には、血生臭い抗争があり、また、勢力関係の隠微な変化が呼び起こす時、昨日の友が一夜にして敵に変わってしまうことさえ、稀ではないと思います。
井上靖の「後白河院」は、平安時代末期の保元・平治の乱を起点として、源頼朝が武家政治を確立する、鎌倉幕府成立期までの数十年間を、当時の政治の中心人物のひとりであった、後白河院の周辺にいて記録を残している平信範、建春門院中納言、吉田経房、九条兼実の四人の公卿、それぞれに語らせた四部構成の形態を取った作品です。
語り手が、後白河院の側近の人たちですから、直接に描かれているのは、院政のもとでの裏面史であるとも言えなくはありません。
しかし、新たに興ってきた武士の勢力は、朝廷あるいは公家の対立勢力であり、さればこそ、公家の文化の残像を代表している人々の目には、源氏と平家の興隆は、他人事ならぬ事態として見えるのです。
そして、権力の中枢をめざして争う諸勢力の出没を、あたかも冷然と見下しているかのように、やや薄気味悪く、背後に控えているのが、後白河院その人だったのです。
権謀術数の何たるかを心得ていて、しかも、自信あるがゆえに、冷たく君臨する後白河院の姿は、語り手の言葉の間に見事に浮き彫りにされているのです。
もとより、作者の井上靖は、後白河院を賛美しているのでもなければ、いわば、このしたたかな政治的人間と、その魔力によって、滅んでいった諸勢力の運命を、透徹した眼光によって直視しているのだと思います。
だが作者の目は、果たして冷たいだけなのであろうか? 結末部にいたって、かつて自ら死を選んだ信西入道が、いかに純粋に愛や信頼への期待をもっていたかが語られる時、私は歴史の中の人間のもうひとつの心に触れる思いがしたものです。
人間のすべての営みを冷酷に見つめ、しかも、それをさらに大きく包んで肯定している作者の複眼が、この小説に高度の文学性を与えているのだと思います。
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