千恵さんが望んだのは「哀れみの目」を向けられることではない
目次
評価が分かれる実写作品、その理由は?
この作品は事実に基づいたドキュメンタリー要素の強い作品であるため、厳しいレビューはあまりしたくないのだが、亡くなった長島千恵さんとそのご遺族、彼女を取り巻く仲間の方を批判する意図はなく、あくまで映画作品の作り方として考察したい。
この作品はストーリーとしては決して軽んじられるような内容ではないし、むしろ一つの作品として世に出す題材としては作りようによっては素晴らしい作品になる題材だと思う。
しかし、厳しい評価がされている理由に次のような点が考えられる。
この作品は、ドキュメンタリーで事前に放送された千恵さんの闘病や死という事実や、それを受けて視聴者がどう思ったかという感情にやや依存して成り立っている印象を受ける。後に述べるが、ドキュメンタリー抜きでこの映画が千恵さんを世に知らしめる最初のメディアであれば、また評価は違ったろう。
また、タイトルの「余命一ヵ月の花嫁」も、余命=病気、重病、婚約者か結婚後、闘病の甲斐なく女性の側が亡くなる話という悲壮感あふれる内容というのが目に見えてしまう。受け手はかわいそうな闘病話という印象を真っ先に感じるだろう。
映画化を千恵さんが望んだならともかく、メディアが盛り上げたのだとしたら、千恵さんの死や千恵さんが命がけで伝えようとしたことが歪曲されてしまったように感じる。
千恵さんは、同病の人を落ち込ませたり、病気じゃない人から「かわいそうに、まだ若いのに」と思われたかったわけではないのではないか?彼女は自分の経験を等身大で知らしめることで、病気への理解や検査の重要性、「当たり前」と思っている日常がいかに幸せかを訴えたかったのだと思う。
彼女は余命が一ヵ月しかなかったかわいそうな花嫁ではなく、病気になっても太郎さんと幸せを模索し、最後まで生きる喜びに感謝していた、輝かしい女性だったと思うべきではないか。
前向きなタイトルの方が良かったのでは?
そういう意味では余命宣告を受けてがんで亡くなる二人の男性の人生を描いたアメリカ映画、「最高の人生の見つけ方」(原題はThe Bucket List、亡くまるまでにやりたいことを書くリストのこと)のようなタイトルの方が千恵さんの本意に叶っているのではないか?と感じる。
先に乳がんで亡くなった小林麻央さんもブログで、哀れに思われるより、自分の人生はがんだけではなく彩溢れた人生なのだからと語っていた。病気の人の生涯を扱う際、周囲はどうしてもかわいそうな人として取り上げがちであるが、誰の上にもいずれ訪れる死に対し、確かに早すぎるという感はあれ、千恵さんをかわいそうなお嫁さんのような扱いにするのはいかがなものか。その点についてはいささか千恵さんのメッセージとずれる点があり、疑問であった。
序盤の間延び感が惜しまれる。
この映画はキャスティングもいいし実力ぞろいの俳優が演じているのに、約120分という長い尺を生かし切れてないと感じる描写が多い。
まず気になるのが、静止画になってしまったかと思うような単調なシーンが一分以上続くなどの「無駄な表現」の多様である。冒頭からして、千恵さんが恐らく教会に向かう車の中での表情を追っているが、それだけで1分以上も使っている。こういったシーンは十数秒でも十分なのではないだろうか。
それなのにもかかわらず、千恵さんと太郎さんがつき合うまでのなれそめはほとんど詳細が描かれておらず、映画開始後8分で付き合うことになってしまっている。
実は、この間千恵さんはすでにがんの闘病中で、太郎さんとお付き合いすべきか葛藤していたという事実がある。これはドキュメンタリーを事前に見ていた人なら知っている事実だが、映画自体の視点が千恵さんを周囲が見守る形になっているせいか、千恵さんの苦悩はほとんど描かれず、映画では千恵さんの告白に、見ている側も太郎さんと同じタイミングで知るような描写になっている。
このように序盤については、太郎さんの誠実さ、親の反対があろうと千恵さんを支えようとした強い思いが育った過程や象徴的な出来事、千恵さん本人の葛藤にもっとフォーカスし、ただ、友人たちと遊んでいるシーンに10分以上の尺を使うのは、やや尺の使い方や演出を誤っているような気がした。ドキュメンタリーにはない映画ならではの啓蒙もできたと思うが、細かい心情はドキュメンタリーでお分かりですね、と視聴者の事前情報に依存してしまった形になっているように思う。
肝心な部分の省略が。映画なら少し脚色があっても良かったのでは。
しかし、映画化するのであれば、むしろ闘病と若者らしいお付き合いを望む気持ちとの葛藤を千恵さんの視点でしっかり描いた方が良かったように思う。作中では千恵さんが胸を摘出して一人慟哭するシーン以外は、千恵さんの心情はほとんど客観的にしか描かれていない(千恵さん主体になっていない)ため、どうも彼女の心情がつかみにくい。
散々彼女に御父上や太郎さんが、病気が治ったら何がしたいか、今何がしたいかなど尋ねるシーンがあるのに、そこではドレスを着る希望を一切述べてないのに、いきなり降ってわいたような太郎さんの模擬ウェディングフォトの提案を友人が「千恵の夢」というのも、唐突な感じがする。
模擬式の直前に千恵さんが欲しがっていた指輪がなかなか手に入らず太郎さんが困っている描写があるのに、当日指輪があった件も、どうやって手に入れたのか、そのあたりもすっぽ抜けている。強いて演出するなら、模擬式を決意した時点で指輪は用意してあり、入手に困るシーンは不要だった気もする。
映画ならではの演出があっても、千恵さんの意に沿う改変なら許容範囲だったのではと感じる。
もう少し登場人物の心の動きを丁寧に描写してほしい。
映画の終盤、千恵さんが自分のことをメディアに取り上げてもらうため、友人を介してテレビ局を紹介してもらい、病室に撮影に来ているのを太郎さんがびっくりして、メディアへの露出を反対するというシーンがある。
千恵さんが自分で望んだこと、千恵さんも自分の命が長くないことを察してのことということで、強硬に反対した太郎さんが折れるのだが、これは事実に即したものなのかもしれないが、やや違和感がある。メディアに出るか出ないか、連日泊りで看病に当たっていた太郎さんに、常識的に千恵さんは取材前に相談していたのではないか?取材に巻き込まれるであろう太郎さんに無断で取材を受ける、友人に相談するということがあったのだとしたら、太郎さんに内緒にしたその真意は?といささか不自然である。
また、映画ではなんとなく、入籍を拒む千恵さんに抗う形で結婚式をし、入籍したように(タイトルも花嫁であるので)思えるが、実際には模擬結婚式を行ったのであり、二人は入籍はしていない。
太郎さんが模擬フォトウェディングを思い立ったきっかけや(千恵さんの夢だった点は提案後に友人から聞かされたのであり、太郎さんが知っていたわけではない)余命の告知をしていないのに入籍抜きで結婚式のデモンストレーションを行うことを、千恵さんや太郎さんがどう受け止めていたのか、そちらが非常に気になった。映画だけだと入籍した様な終わり方であったため、そのあたりは太郎さんの結婚への意欲ということで結論付けられてしまった感もあるが、もう少し登場人物の複雑な心情を掘り下げてもいいところではなかったろうか。
結婚式では神父の前で誓いまで立てていて、千恵さんの死後、千恵さんの実家に太郎さんが訪れているシーンもあるため、視聴する側としては当然入籍したものと誤認している人も多いと察する。
千恵さんの言葉
明日が来ることは奇跡、この言葉はとても重い。それなりに胸を動かされる映画なのだが、心情より行動を追うことがメインになっており、ドキュメンタリーでも紹介された太郎さんがハンディビデオで撮影した千恵さんの姿の焼き直しの様なシーンの多用で、作品的にはドキュメンタリーで紹介されたエピソードを瑛太さんと榮倉さんが演じて紹介しているという体裁である。真に伝えたいことは冒頭の千恵さんの言葉に集約されてしまっている感があるので、ドキュメンタリーや書籍で二人のあれこれをある程度知っている人には、やや既視感しかないかもしれない。
もう少し映画的脚色をして、明日が来ることへの感謝という部分をストーリーで強調し補完出来たら、さらにすぐれた作品になったろうと思うと惜しい。
なお、余談であるがエンディングのスタッフロールで、太郎さん役の瑛太さんが先頭、その後ずっと榮倉さんの名前が出ず、最後の最後に榮倉さんの名前が出たが、そういう紹介手法もありなんだろうけど、やはり違和感しか感じなかった。太郎さんと千恵さんを、スタッフロールでも引き離してしまう必要はあったのか。悪意があったわけではなくインパクトを重視したんだと思うが、奇抜であればいいというものでもないと感じたのは私だけではないはずだ。
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