映画やドラマのような映像的なストーリー
等身大の女性の等身大の悩み
この作品の主人公は、恋愛と仕事、そして友情に悩んでいる女性だ。悩むと言ってもそれほど深刻なものではなく、なんとなく不満を持ち、なんとなく流されていく自分がこのままでいいのかと思いながらも、日々の生活をこなしているとそれほど深く考える暇もなく、毎日が過ぎると言った感じだ。その感じがとてもリアリティがあり、誰もがそれほどきちんと毎日自分に向き合って生きているわけではないと言ったような、安心感を感じた。
またこの主人公の女性、悠木仁恵にも親近感を持てる。女性だけど一人で外食してお酒を飲み、恋人なのか幼馴染なのかわからない存在の男友達の言動にいらだち、毎日ただルーティンのように働く、いわばそれほど“意識高い系”ではないところがよかった。
人は誰でも、高尚にきちんと生活しているわけではない。失敗もするし、お酒も飲みすぎてしまうし、友達を傷つけたりもする。そんな等身大の女性が主人公だったことが、この作品を一気に読むことができた理由のひとつだと思う。
仁恵は、仕事がイラストのデザイン事務所という芸術系の仕事をしているのにもかかわらず、野望がない。のしあがろうとか、成功してもっとお金を稼ごうと言った願望が全くない。だから友人の成功を心から喜べるし、後輩に先を越されても嫉妬も感じていない。そのような自然体のところが、個人的に好きなところでもある。ガツガツしている人が主人公だと読み疲れてしまうことがあるが、仁恵のそういうところが読み手を癒やして、のびのびとさせてくれた。それはまるで、自分がそのままでいいんだよと言われているようで、長年の友人と飲んでいる時のような、妙に解放感と親密な気持ちになることができた。
パーソナリティ、竜胆美帆子
この作品のスパイスになっているのが、毎日同じ時間に流れるラジオのパーソナリティーの話だ。彼女が毎日“どうでもいいこと”を話すその内容が、逆に聞き手を疲れさせない。多分聞き流せると言うことが大事なのだと思う。頭を働かせて集中して聞くのはとても疲れる。本来疲れを癒やしてくれる存在であるはずのラジオに、そのような緊張を強いられていいはずがない。だから、この“どうでもいいこと”ばかりを話そうと決心したこの番組のパーソナリティ、竜胆美帆子は正しいと思う。
この作品自体、“どうでもいいこと”が満ち溢れている。美帆子の話はもちろん、仁恵の思考や幼馴染である雄大との会話、親友の珠子の会話など、読みながら本当にどうでもいいなと思うことが多い。でも人は基本的に、そんな“どうでもいいこと”に囲まれて生きているわけで、それをおざなりにするのは少し違うんだと気づかせてくれた。そして“どうでもいいこと”に人は癒やされることがあるのだと言うことも。
美帆子自体、悩みがないわけでない。夫とはうまくいっておらず、すれ違いの毎日。寂しさから友人と飲み歩くことが一番の楽しみだという女性だ。だけど、意識して“どうでもいいこと”ばかり話すということは、それだけでフェアな気がする。自分の意見を押し付けない代わりに相手の意見も適当に受け流すことは、そうそうできることではないと思うからだ。
どうでもいいことを話せるからと言って人生が順風満帆というわけでもない。グチもあるし、腹も立つこともあるだろう。リスナーからのイヤな手紙もあると思う。プロなのだから、社会的政治的知識を備えてもっと知的な会話をしろという意見も作中に実際にあった。だけど“どうでもいいこと”ばかりを意図的に話すということもある意味プロだと思う。
そしてその心地よさを求める人が実際多くいたことが、それをあらわしているとも思う。
仁恵の幼馴染、駒場雄大
この作品中の登場人物で唯一あまり好きではないのがこの男性だ。仁恵の幼馴染で、35才になってもまだお互い恋人がいなかったら結婚しようとベタなことを言う男性だ。幼馴染というのは誰もが皆憧れるものだけど、どうもこの男性と幼馴染期間を経て恋人になるという想像ができない。仁恵もそうなのか、それともただときめかないという理由なのかよくわからないけど、私はこの男性にどうしても気持ち悪さを感じてしまう。雄大が高校の時に年上の女性にはまってしまい逮捕されたとか、そのようなことではなく、なにかしらこの男性にはねっとりとした粘度の高い気味悪さを感じてしまうのだ。だから仁恵と2人飲みにいって酔っ払って、道路でこけてキスをする場面には鳥肌がたった。おでこから血がでているところ、よだれ。そういったものが2人の情熱の結果とは見えず、ただただ気持ち悪いだけだった。だからあの場面は、もしかしたら月9のようなドラマだったらとてもキレイに感動的に描かれるのかもしれないけれど、個人的にはただグロささえ感じる場面だった。それも雄大の持つ気持ち悪さに起因するものだ。
だから仁恵が最後雄大と結婚すると決めたときは、あまり喜べなかった。
でもそれは作者が意図してそう感じさせたのかもしれない。この作品のスタンスはすべて“どうでもいいこと”に表される平坦な、だらっとしたものだからだ。
逆に、仁恵が“ぞっとした”男性である、珠子の恋人の野島恭臣にはそれを感じなかった。確かに感情のなにかをどこかに忘れてきたかのような男性だったけど、ぞっとするというのとは違った。それがどうして仁恵にはわからないのか、それが少し不思議でもあった。
あとあまりストーリーに関係はないけど、作中“ぞっとする”という言葉の多用が見受けられた。こういう言葉はそのまま直接書かず、ストーリーで感じたいところだ。美しいものを美しいと言わず、哀しいことを哀しいと言わないところに小説の深みがあると思う。そこは今回の作品で残念に感じたところでもあった。
鹿ノ子の不幸な恋愛と仁恵の言葉
仁恵の年上の友人、鹿ノ子は長く不倫を続けている。その相手が入院したものの、そのような身ではお見舞いさえままならない。だから仁恵たちが協力しあい、なんとか2人を会わせることに成功するのだが、そこに至るまでの描写が個人的には好みだった。
昨今の流れで、不倫を必要以上にたたく傾向があると思う。もちろんおおっぴらに日の当たるところを歩ける恋愛ではないけれど、モラルだとか美徳だとか、少し過激に反応しすぎていると思う。そこは最近の日本人にも言えるところで、嫌いなところだ。
逆に悲劇のヒロインのような扱われ方をするのも少し違うと思う。悲恋に酔うということが、実際には恋をしていないことにもなるし、なにより読んでいて気持ちが冷める。
今回の鹿ノ子の気持ちはどこまでもリアルだ。「しょうがないよねえ」と言いながら、忘れることもあきらめることもできない、どこにも行けない気持ちに苦しむ女性そのものだった。悲劇のヒロインのような様子もないし、仁恵たちも責めることはない。
仁恵の言葉に印象的なものがあった。「鹿ノ子さんのやっていることは間違っているかもしれないが、私はあなたを応援する」というものだ。そういうことだと思う。誰かに許してもらい、応援すると言ってもらえることがこの時の鹿ノ子には最も必要だったように思うし、また仁恵自身も心からそう言っているのが分かる。ここもこの作品で好きな場面のひとつだ。
悲劇すぎもせず、たたきすぎもせず、ただそうなってしまっただけといった流れも、この作品のテーマである“どうでもいいこと”の延長のように思えて、よくできてるなと思えた設定だった。
角田光代作品の魅力
角田光代の作品では多くの登場人物たちが実においしそうにお酒を飲む。ある時は一人の夕食で、またある時は昼のレストランで。それがどれも本当に気持ちよさそうで、こちらもうれしくなってしまう。
時に、いい映画でもいい小説でも、なぜそこでお酒を飲まないのか疑問に思ってしまう場面がある。スティーブン・キングの作品ならお酒を飲む登場人物=アルコール中毒だし、吉田修一の作品ならなんだかいつもオシャレなものばかり飲んでいるし、なかなかいいなあと思える場面は少ない。村上春樹の小説に出てくるお酒を飲む場面は好きだが、あれほどのものにはなかなか出会えない(『ねむり』の女性が「アンナ・カレーニナ」を読みながらチョコレートを食べるところなど、ブランデーは好きではないが飲みたくなってしまうほどだ)。
角田光代作品の中で登場人物たちがお酒を飲む場面は、作品の中で光っているところだと思う。食事の中のお酒を本当に楽しんでいることが分かる。角田光代自身もお酒を飲むと読んだ。そういう実体験を追体験させるような、よい描写だと思えた。
いくつかの映画が思い浮かぶほど映像的な描写
この作品は、その無駄のない文章と描写のおかげで、頭にすぐ映像が浮かぶ。ラジオから流れる美帆子の話が、さまざまな人の生活に入り込み、さまざまなシーンがそこにあるという場面は、読んでいてまるで映画のようだった。ただし映像的すぎるからか、全体的にかなり軽めな印象ではある。だけど、それもテーマである“どうでもいいこと”ゆえんだろう。
これが映像化されるならちょっと見てみたいなと思える作品だった。
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