最初から最後まで期待外れのストーリー
デヴィッド・フィンチャー監督という期待
「セブン」や「ゲーム」などの素晴らしい映画を見せてくれたデヴィッド・フィンチャー監督ということで、期待して観た。そもそも主演であるベン・アフレックは個人的にあまり好きではないので、監督がデヴィッド・フィンチャーだということだけで観たといっても過言ではない。だからきっと彼の手腕にかかればそれはきっとベン・アフレックしか出来ない役で、見終わった後は彼でよかったなあと思えるのではないかと思ったのだ。
「セブン」では残虐シーンはあるものの直接それを見せずに想像させるということで、余計その怖さを増幅させた。そして救いようのない暗さをケヴィン・スペイシーやブラッド・ピッドの演技の奥深さで感じることができる名作だと思う。
「ゲーム」は突拍子もない設定ながらもリアリティがあった。マイケル・ダグラスのシリアスで真剣な演技は時にコミカルな表情を見せ、最後まで目が離せないストーリーだった。
また「ゾディアック」ではあまりにもリアルなシーンの連続で、ある一つのシーンはいまだにトラウマになっているくらいだ。
そんな監督だから大いに期待して観たのだけれど、早々から肩透かし感が感じられるストーリー展開だった。
確かに俳優の演技なくしては映画は成り立たないとは思う。しかし俳優を動かすのは他ならぬ監督だから、ここはそういう演技ではないだろうと思ってもそれは監督の采配によるものだから、基本的には俳優は悪くないと思う。実際名も知らない俳優しか出ていない映画でもいいのはたくさんある。だけどキャストのイメージ違いはどうしようもない。大概のものは最後まで見ると、まあ悪くなかったかなと思えるけれど、今回の「ゴーン・ガール」に至っては、ベン・アフレックであることの違和感は最後まで続いた。
その上、行動の動機のわからなさやリアリティのなさ、演技の深みのなさなど、ストーリーは今までのデヴィッド・フィンチャーの映画に比べるとお話にならないくらい軽い。妻の失踪、夫の不貞、殺人などテーマはいいのにどうしてこうなったとさえ思ってしまった。
ベン・アフレックの演技
個人的に、肉ムキムキ系俳優になってしまうと演じる役どころがどうしても狭くなってしまうと思う。アクション系くらいしかそれを活かせるところはないのだろうか。もちろん役作りで筋肉を大きくする必要などはあると思うけれど、もともと背も大きい彼が筋肉まで大きくなってしまうと、繊細な演技ができなくなってしまっていると思う。妻が失踪した後も、妻にいいように操られた後も、憔悴しきった印象がまるでない。そのため夫は何をどうしたいのか、どう思っているのかが全く伝わってこないのだ。妻がいなくなって哀しいのか、戻ってきてほしいのか、帰ってきて嬉しいのか、まるでわからない。
もちろんストーリーは全体的には分かる。だけどそれはセリフがあるからこそで、俳優の表情などからではない。そこがベン・アフレックだからではないかと思ってしまうのだ。監督がどう彼に演技して欲しかったのかはわからないけれど、思惑違いではなかったのではないかと思ってしまったくらいだった。
ベン・アフレックは「アルマゲドン」は良かったと思う。それほど重い演技は必要ないし、甘いシーンならよくはまるし、あれは適材適所だったと思う。
とはいえ個人的に好きではない俳優だったため、それほどたくさん彼の演技を見たわけではない(あとは「パールハーバー」だけだけど、あれもさほど印象に残る演技ではなかった)。だからあまり言えないところもあるのだけど。
だけど今回はベン・アフレックの筋肉はストーリーには全く関係ないし、だからなぜこの映画に彼が選ばれたのかが最後までわからなかった。
ロザムンド・パイクの演技
ロザムンド・パイクという女優は今回の映画で初めて見た。彼女は今回の映画でベン・アフレック演じる夫ニックを陥れる最恐の妻エイミーを演じて数々の賞を受賞している。しかし個人的にはさほど深い演技だとは思えなかった。常に一歩先にいる怖さや目的のためにはなにをするかわからない異常さを演じているのだけど、そこに狂気を感じられないのだ。演技に怖さがないので、ストーリーにもそれほどの怖さを感じられない。デジーの喉を切り裂くところは映像としては怖いけれど、エイミーの表情などには怖さは感じられない。これは致命的だと思う。
狂気を感じた演技といえばあまりにも有名な「ミザリー」のアニーを演じたキャシー・ベイツだろうか。あとは「危険な情事」のグレン・クローズ。「キャリー」の母親。ベタではあるが、本当に演技と思えないくらいの狂気が感じられた。それに比べて、今回のロザムンド・パイクはそこまでの壮絶といってもいいくらいの狂気が感じられなかったのが残念だった。
ストーリーや演出に感じる違和感や疑問
そもそもエイミーが失踪した理由がわからない。ニックが暴力を振るったといっても日常的ではないし、しかも少し押したくらいのものでニック自身もすぐかなり謝っている。それが理由であそこまで方々巻き込んで失踪する意味がわからない。
また妊娠を装うために妊婦の友人の尿を盗むのだけど、それだけでは妊娠検査薬陽性くらいの証拠はできるだろうけど、医者に行ってみてもらうことはできないので、証拠としては弱すぎるのではないだろうか。
また監禁されレイプされたという“ストーリー”を引っさげてエイミーがわざわざ血まみれで記者の目の前でニックの元に戻ったときも、あれほど演出過剰なら誰かが疑問に思うのではないだろうか。
その後病院に搬送されてレイプの痕跡を医者が認めるのだけれど、あんな自作自演の証拠で医者がすんなりだまされるものだろうか。誰かしらが不自然に思うものではないのだろうか。そういう疑問が観ている最中に湧き出てきて、まったくストーリーに没頭できなかった。
極めつけはその病院で検査終了後家に戻るのだけど、デジーの血を浴びた血まみれのまま帰宅する。仮にも病院に行ってるのだから、血くらいはキレイに拭いてくれるだろう。血まみれのまま帰宅するなどあり得ないと思うのだ。
このような演出への疑問、ストーリーのためのストーリーを作りあげることによって生じるリアリティのなさが、この映画を観ている間中ついてまわった。
あと、ニックがエイミーの失踪のために警察にいっているとき痴呆の父親が保護されていることを知る。この痴呆の父親とニックはあまりうまくいっていない感じの場面だったけれど、この父親これだけの登場で最後まで出てこない。こういう余計な伏線も必要ないと思えた(もしかしたらこの父親の世話もエイミーがさせられていて堪忍袋の緒が切れて失踪といった感じでもなかったし)。双子の妹との絆の強さもの理由も、エイミーの母親の出した絵本の話のタイトルの必要性もなにもかもが伏線だとしても回収しきれていないような中途半端さが残った。
よくわからないラスト
結局自宅に戻ったエイミーはニックを自分に縛り付けるために、精子バンクに預けていた彼の精子で断りなく妊娠する。それを伝えたときニックに頭を壁に打ち付けられたが、それのほうが初めの暴力よりもきつかったにもかかわらず彼女はまるっきり堪えていない。どうしてそこまでしてニックと暮らしたがるのかその執着の理由は最後までわからない。DVDのパッケージにはあらすじで“セレブ夫婦”と書かれていたけれど、そのお金の出元はエイミーの母親であってニックではない。だから余計わからないのだ。
またニック自身は離婚を願いつつも、子供には責任を感じてともに暮らす決心をしそれを妹マーゴに嘆かれるのだけど、その場面ではニックは相当憔悴しきっていないといけないのに、相変わらず肩も落とせないムキムキさ加減にまるっきり同情もできなかった。だから、ほらベン・アフレックじゃないと言ったでしょとそこでも思った。
もしベン・アフレックがイーサン・ホークならもっと観れた作品だと思う。妻が失踪し、慌てふためく様が彼ならぴったりくる。そして体格も大きすぎないので、心配したりハラハラしたりできたと思う。そしてロザムンド・パイクの代わりはローラ・リニーがいいかもしれない。
そしてストーリーを最初から見直して破綻せずに最後までいければもっと面白くなる映画だと思う。
奥田英朗のエッセイである映画プロデューサーの話が書いてあったのを読んだことがある。それは作っている途中で失敗とわかる映画があるということ、でもお金はかかっているから失敗だなんて口が割けても言えないこと、結果「傑作です!」と言い張らなくてはならないことが書かれてあった。
もしかしたらこの映画もそういう類なのかもしれないと思った作品だった。
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