イングマール・ベルイマン監督が追求し続ける人間苦、世界苦を人間の宿命に殉じた殉教者たちを通して美しく聖化して描いた 「冬の光」 - 冬の光の感想

理解が深まる映画レビューサイト

映画レビュー数 5,784件

イングマール・ベルイマン監督が追求し続ける人間苦、世界苦を人間の宿命に殉じた殉教者たちを通して美しく聖化して描いた 「冬の光」

5.05.0
映像
5.0
脚本
5.0
キャスト
5.0
音楽
5.0
演出
5.0

イングマール・ベルイマン監督が描いてやまないテーマを一口で言えば、人間苦、あるいはもっと広く世界苦ということになると思う。世の中には、叶わぬ恋に悩んでいる者がいる。貧乏で苦しんでいる者もいる。それらも苦悩である。だが、しかし、恋の苦悩は、恋の望みが叶えば癒されるであろうし、貧乏の苦しみは、豊かになれば忘れてしまうだろう。

ところが世の中には、恋が得られようと、富が得られようと、そうした具体的な幸運では決して癒されないであろうような、もっと抽象的な苦悩があるのだ。生きていること自体が苦痛であるというような苦悩、この世界の存在自体が苦痛であるというような苦悩、それを仮に、"人間苦"、"世界苦"と呼ぶこととしたら、ベルイマン監督が描き続ける苦悩は、そのような苦悩だと思います。

このことは、ベルイマン監督のほとんど全ての作品に言えることですが、特にこの「冬の光」のように、劇的な粉飾やストーリー的な面白さといったものを取り去って、純粋にモチーフだけをむき出しにして提示したような作品に接すると、そのことを特に痛切に思わないわけにはいかないのです。

グンナール・ビョルンストランドが演じる牧師は、信仰を失いながら、信者に説教を続ける。これは苦痛である。この苦痛は、もはや信仰に戻ることによって癒されるということはないであろう。彼は、一瞬、信仰をふり棄てたことによって自由を得たといった言葉を口走ります。しかし、そこには必ずしも自由と解放の歓喜があるわけではないのです。むしろ、それまで信じていた神を裏切ることになるためか、苦悩はいっそう深まるかのようなのです。

彼は、イングリッド・チューリンの女教師と関係を持っている。しかし、このような人間苦に呪縛されている人間は、決して恋人を愛することはできない。彼は、亡くなった妻を愛していたようであり、そのために今の愛人を愛することができないようである。だが、しかし、彼と亡き妻が真に愛し合っていたかどうかも疑わしい気がする。なぜなら、彼のような人間は、自分の誠実さという観念こそが大事なのであって、亡くなった妻との愛をイメージとして思い浮かべて涙することはできるだろうが、その愛が本当に生き生きとした血の通ったものであったかどうかは、よく分からないのである。

ここでむしろ、私はベルイマン監督の「野いちご」の老人を思い出す。あの老人は、かつて自分が野いちごを一緒に摘んだ少女への観念的な思慕に生きるだけで、ついに生活を共にしている妻を愛することのできない心の冷たい人間であったという苦悩に苛まれていた。つまり、ベルイマン監督の映画の主人公は、抽象的観念的な事柄にのみ深く捉えられて、目の前にある生身の女性を愛することができないという点で、いつも同じ性格を与えられているのです。

これと対応するように、ベルイマン監督の映画の女主人公の多くは、ヒステリー的な性格を与えられているのです。女の中に、何か抽象的かつ神秘的な愛の観念のみを見ようとする男たちに対して、ベルイマン監督の映画の女主人公は、常に、いらだち、おののき、充たされないのです。残念ながら、彼女たちは、こういう男をやさしく包み込むだけのふくよかさを持たないために、やはり自ら、人間苦の中にはまり込んでいくのです。

どうやらベルイマン監督は、やさしい母性を求めることによって、人間苦を癒されようとは考えないようである。むしろ、抽象的な思慕を突き詰め、その不可能をきわめることによって、人間の希望の限界を見きわめようとするかのようである。

イングリッド・チューリンの女教師は、他の多くのベルイマン監督の作品の女主人公と同じように、人間苦に苛まれる牧師をやさしい母性でくるんでしまうことはできない女なのです。神はあるかないか、というような抽象的な問題で心の容積の全てを占められているような主人公に対して、彼女は、そんなことは自分とは関係ない、神なんて自分とは無関係だというのです。これまた抽象的で、観念的な反応しかできない。彼と彼女は、いわば相互に鏡のような存在で、お互いに、相手の中に自分自身のやりきれない姿を見出して、いらだちをいっそう募らせているかのようなのです。

マックス・フォン・シドーの漁夫は、中国が原爆実験をしたというニュースで苦しんで自殺する。しかし彼は、自分が死ぬことによって妻が苦しむだろうということは考えなかったようである。原爆実験は人類の滅亡の予兆である。したがって、それにいちはやく怯えて自殺するということは、むしろ当然なのかもしれない。しかし彼も、常識的に言えば、人類の滅亡といった普通の人間には実感しにくい抽象的な問題にこそ深く心を捉えられ、妻の苦労というような具体的な問題の方は、あまりピンとこないというタイプの人間であったということになるだろう。

世の中には、具体的な問題にのみ悩んで、抽象的な問題には悩まない人がいるものだ。そのほうが数としては圧倒的に多いだろう。具体的な問題にのみ悩む人は、具体的な問題が解決すれば悩みも解決する。しかし、抽象的な問題に悩む人は、抽象的な問題というものが、そもそも原理的に解決不可能なものであることが多い故に、その解決ということがないのです。

すなわち、人間苦、世界苦と呼ぶしかないような苦痛であり、そのような苦悩が現に存在するのだということを、のっぴきならない形で我々に提示して見せてくれるのが、ベルイマン監督の映画なのだと思います。なかんずく、この「冬の光」がそうだと思います。

ベルイマン監督の映画は、だから、観ていて愉しいという種類のものではありません。むしろ、しばしば観ること自体も苦痛なのです。ただ、我々がそのような苦痛に耐えられるのは、それがあまりにも美しいからに他なりません。こうして苦痛に苛まれている人間たちを美しく描くということは、彼らを聖なる存在に高めたいということであり、ベルイマン監督はそれを遂げていと思うのです。

抽象的な人間苦、世界苦に捉えられている人間を、我々は特殊な人間として普通人から区別し、差別することもできる。例えば、それを精神病と見ることもできるし、事実、ベルイマン監督は「鏡の中にある如く」のように直接的に精神病の苦痛をテーマにしたことがある。また「叫びとささやき」なども精神分裂病者のイメージの世界として見ることが可能なのではないかと思う。しかし、ベルイマン監督は精神病を描いても、決してそれを普通人には無関係なものとして描いているわけではない。むしろそれを、知性というものを得た人間の宿命として見届けようとするかのようである。

ベルイマン監督の描く人物は全て、家族や隣人や友人、職場の同僚などと親しい関係を結べない人間たちである。そうした具体的な現実からは遠ざけられるから、彼らは、ひたすら、神の存否や人類の運命というような抽象的で観念的な問題に向かうのです。と言うと、いや彼らがそういう偏った性格を持っているから、結果として人間関係の適応ができないのだと、思われるかもしれない。しかし、現代の社会を総体的に見渡した場合、ベルイマン監督の描くような人間が増大する方向に動いていることは確かなことであろう。

人間は死すべき存在であることを自覚することによって、宗教をあみ出したが、さらに、宗教の虚妄を自覚することによって、何をあみ出したらいいのか、そのような問いは、こういう、抽象的、観念的な人々によってしか問われない。その人々の一部は、確実に精神病となって倒れるであろう。いわば彼らは、精神の世界の殉教者なのかもしれません。抗し得べくもない大問題に向かって、繰り返し、繰り返し、われとわが身を投げ込んでいく人々なのだと思います。

たとえ、映画の中とはいえ、そういう人間を観ることは辛い。ただ、僅かな救いは、ベルイマン監督が、彼らを、人間の宿命に殉じた殉教者たちとして、まことに美しく聖化して描いてくれることだけなのである。

あなたも感想を書いてみませんか?
レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。
会員登録して感想を書く(無料)

関連するタグ

冬の光が好きな人におすすめの映画

ページの先頭へ