失われてゆく世界と、閉ざされた空間で育まれる密やかな愛の物語
目次
現代社会と対照的な、消えゆく世界
物が溢れかえり、毎日何かしらの新製品が発売される昨今。この物語の舞台となる島は、それとは正反対の世界だ。あったはずのものや事象が少しずつ消えていく島。それはいうなれば、緩慢に死に向かう世界だ。
無国籍な雰囲気、現実から少しずれた不思議な世界を作り出すのは小川洋子が得意とするところだが、この島を蝕んでいく消滅の概念は少々わかりにくい。
ある朝起きると消滅がやってきたことがわかる。だが、あったはずのものがひとりでに消え失せるのではない。例えばバラが消えたとき、風はなぜか植物園の中でもバラだけを選別し、その花びらを全て落としてゆく。バラを所有する人はバラを川に捨てる。消滅があったとき、それを所有する人は自発的に処分し、消滅させるのだ。なぜなら、持っていても既に意味をなさないから。消滅があってほどなく、人々は消滅したものに関する概念、記憶をもなくすのだ。
鳥が消え、カレンダーが消え、春さえもやってこなくなる。芽吹きの季節・春をも失った島は冬に閉じ込められる。このまま消滅が続けば、ついには、人間さえも消えてしまうのでは?とは、当然誰もが思うことだが、主人公の女性以外、そのことを口にする人間はいない。口に出せば本当になってしまうかもしれない不安が、口にすることをためらわせるのだ。
失われたものの記憶を持ち続ける人と秘密警察
不思議なことに、この島において失われたものの記憶を持ち続ける人たちがいる。彼らの存在はなぜか島の権力者を脅かすものらしく、その存在を知られたら最後、秘密警察によってどこかへ連行されてゆく。その人々を匿う組織があり、記憶をなくさない人たちはどこかの家の、秘密の場所に隠されることになる。
この設定は、ナチスドイツ支配下のドイツ、ゲシュタポ、アンネ・フランクといったことを連想させる。
小川洋子が小説家を志すきっかけとなったのがアンネの日記を読んだことであり、実際にドイツに行ってアンネの生涯をたどり、ゆかりのある人々を訪ねたノンフィクション『アンネ・フランクの記憶』という本を上梓していることからも、この物語の着想がアンネ・フランクから得られたことがわかる。R氏が隠れていた小部屋の様子なども、ただ想像したものではなく、実際に見たものを元にして書かれたのだろう。
閉ざされた世界で生きる人々と封じ込められたもの
小川洋子作品の中には閉ざされた空間で生きる人や動物が多く登場する。
『猫を抱いて象と泳ぐ』のリトル・アリョーヒンや象のインディラ。短編集『夜明けの縁をさ迷う人々』の中のエレベーターで生涯を過ごすE.B.。『琥珀のまたたき』では3人の姉弟が母親によって家に軟禁され、『人質の朗読会』ではゲリラに捕らえられた人々が逃げ場のない状況でそれぞれの過去を語る。
この「閉ざされた世界」からは、彼女が敬愛するアンネ・フランクの影響が多大に感じられる。小川洋子作品において閉ざされた世界で暮らす人々は、どれだけ狭く他者から見ると不自由な場所にいたとしても、当人はささやかな幸福を感じ、その狭い世界に順応して暮らしている。これは、アンネ・フランクが隠れ家から一歩も外に出ることのできない生活の中で、希望やユーモアを失うことなく暮らしたことが、小川洋子の心の琴線に触れ、多くの閉ざされた世界を生み出すきっかけとなったのではないだろうか。
また、もはや機能しなくなったものを封じ込める、というエピソードも多くの作品で見られる。
『沈黙博物館』や『薬指の標本』、『最果てアーケード』などである。
この物語の中では主人公の母親が自身の彫刻に消滅したはずのものを封じ込める。
小川洋子は幼少時、自身が宝物と思うボタンや王冠を土に埋め、土の中では幾多の歳月が流れたと仮定して翌日に取り出し、その品々が体験してきた物語を思い描いていたそうだ。その行為がものを封じ込めるという着想につながり、数々の本来なら失われていくものを封じ込めるというテーマを持つ作品が生まれたのだろう。
本の消滅。それが暗示する島の運命
ある日、ついに本の消滅がやってくる。街のいたるところで本が焼かれる描写を読みながら、本を焼くようになると国が亡びる、であったか、そういう格言のようなものがあったはず…と考えていた。正解は、主人公の女性が教えてくれた。
「書物を焼く人間は、やがて人を焼くようになる」だ。
小説家である主人公はその生業を形にした本の消滅を嘆き、図書館が焼かれる光景に涙してもいいようなものだが、すでに本の記憶も消えつつある彼女の心は揺さぶられることはない。
記憶の消滅を受けない女性が自らの危険も顧みず、本が焼かれるのを阻止しようとする。物語の外にいる私は彼女の気持ちが痛いほどにわかった。本には人間の記憶の全て、想像したことも実際に起こった過去のことも、全てが詰まっている。それを焼くということは、未来を放棄したのと同じことだ。
本の喪失は、この島にもはや未来がないこと、救われる道が閉ざされたことを暗示している。
閉じ込めたのは彼女、閉じ込められたのは彼
本作品の中では、時折もう一つのストーリー、小説家の主人公が書くタイピストの物語が挿入されるが、彼女が書いた小説とは逆に、閉じ込められたのは彼=R氏のほうであった。
彼女がR氏を匿うことを決めたとき、少し早急な気がした。秘密警察による摘発があちこちで見られるようになっていたにしろ、一度隠れてしまえば、二度と世間に出てこられる保証はないのだ。R氏の妻は妊娠中であり、せめて出産を待ち、子どもをひと目見てからでもよかったのでは、という気がしたのだ。母親を秘密警察によって奪われたことが、R氏を早急に隠し部屋に匿うことに決めた理由のひとつなのだろうが、物語の中盤を過ぎて、R氏を閉じ込め、自分のものにしておきたいという彼女のエゴもあったのでは、と感じるようになった。
彼女はおじいさんに「R氏は隠し部屋を出て赤ちゃんや奥さんに再会できると思う?」と問いかけながら、「たぶんだめだと思う。彼はもう、あの部屋だけでしか生きていけないのよ」と結論づける。
彼女には予感があったのではないだろうか。最後には自分自身をも消えてしまう予感。そして、そうなる前に彼を閉じ込めて自分のものにしておきたいという隠された欲望も。
彼女が書くタイピストの物語は、当初の予定から大きく変容してゆき、最終的にタイピストの彼女は時計塔の上に閉じ込められる。このことは、R氏を救うためとはいえ、隠し部屋に閉じ込めることになったことと決して無関係ではないだろう。
解明されない謎、だがそれでもこの物語は美しく心に残る
物語の最終、彼女は声だけになりやがてそれも消え去り、R氏は隠し部屋から外の世界へ足を踏み出す。
結局消滅とはなんだったのか、秘密警察はなぜそこまで消滅の影響を受けない人を厳しく取り締まったのか、秘密警察に連行された人々はどうなったのか、人間が消えてそれ以上の消滅は止まったのか、いくつもの疑問が残されたまま、物語は終わる。
少々消化不良な印象は残るが、消滅という抽象的な概念を扱いながらも読者を飽きさせず、不安をはらませつつ淡々と進んでゆくストーリー展開には作者の力量が感じられた。
美しい文体で綴られたその儚い世界感は、物や情報に溢れる濃密な世界に住む私たちのほのかな憧憬をかきたてるものとなっている。
解明されない謎もまるごと心の底に沈め、またこの儚く美しい世界を訪れたいと思わせる作品に仕上がっている。
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