公序良俗に挑戦したひとりの芸人の栄光と悲惨を、鋭利なドキュメンタリー・タッチでクールに捉えた秀作 「レニー・ブルース」
この映画の主人公レニー・ブルースが40歳で死んだのは1966年の8月ですから、もう51年も昔のことになります。彼が異端の芸人、エンターテイナーとして脚光を浴びた5年ほどの間に22回も逮捕され、最後は麻薬中毒と結核で心身ともにボロボロになって、一文無しで死んでいったこのひとりの芸人の短い一生とは何だったのか? -------。
公開当時としても珍しかった黒白画面のこの映画は、レニー・ブルースの軌跡を鋭利なドキュメンタリー・タッチで再構築して、なかなか辛口でシニカルな傑作になっていると思う。もっとも、ドキュメンタリー・タッチといっても、それはレニーの言葉や裁判の記録が事実に基づき、また構成が関係者からのインタビュー取材の形になっているということで(ただ、最後にレニーの裸の死体が風呂場に転がっているスチール写真だけは本物ですが)、レニーをダスティン・ホフマン、その妻ハニーをヴァレリー・ペリンと、当時まさに脂の乗り切っていた俳優が演じているのであって、その演技の圧倒的な充実がこの作品の大きな魅力となっているのはもちろんです。
レニー・ブルース、ユダヤ人としての本名はレナード・アルフレッド・シュナイダーの職業を無理に日本流に言えば、寄席芸人とか漫談家ということになるのだろうけれども、日本のそれらの芸人たちと違って、社会や政治に対する皮肉、風刺にしても、日本の芸人のものは大方の賛同を呼ぶことのわかっているような安全な枠に入った体制批判を調味料として使うだけだと思う。
ところが、レニーはそれまでは公開の席上で絶対タブーであったような卑猥なスラングや四文字(FUCK)や十字架(COCKSUCKER)などを連発し、エリノア・ルーズベルト夫人からジョン・F・ケネディ大統領、法皇まで持ち出して、猛然と"公序良俗"に挑戦したのです。レニーは公然とニガー(黒人)とかイタ公とかポーランド野郎とクラブで名指しし、俺はジュー(ユダヤ人)だと言ってのけるのです。その時のクラブの緊張した場内が、やがて拍手に変わるシーンは実に見事です。
レニーの標語は「言葉こそは人々の頭をぶったたくトンカチなのだ!」だったのです。そして、彼の自叙伝の編集者のP・アズナーは、なぜ彼がこうまで汚い言葉を使うのかについて「彼は何度も何度も繰り返してああいう言葉を使うことによって、人々にそれがただの言葉に過ぎないことや、その言葉の背後に隠されているものを見なければならないことに気付いてもらいたがっていたのです」と語っています。
また、訴訟でレニーに勝った地方検事のA・シェーファーでさえ、「レニーにとって、言葉は武器なのですね。彼は人間が、人間の真実をもっとよく見るように、常に警告を発しているのです。裁判長だろうと連邦司法長官だろうとセックスに関する言葉は使っているのだし、ソレをしているのですからね。レニーは伝えるべきメッセージを持っているし、それに対して正直なのです」と、後に語っています。
この映画は、こうした主張から生まれるレニーの猛烈な話芸を最初から散りばめながら、その内容と結びつく形でその半生をたどっていきます-------。
ドサ回りの先でストリッパーのハニーと知り合い、やがて母親(ジャン・マイナー)やマネージャー(スタンリー・ベック)に反対されながらも結婚。やがて二人ともヘロインを常用しはじめ、生活はすさみ、ハニーの出産、離婚、ハニーの服役-------。
そうした生活の流れの中で、それまで大スターの物まねや声色などをして冴えない芸人だったレニーが、猥褻な言葉を乱発する風刺と社会に対する偽善攻撃が、意外と客に受ける金鉱であることを発見したのです。そして、彼は人気者となり、金持ちにもなったのです。やがて、その後に来るのが、警察による狙い撃ちと、サンフランシスコやシカゴやフィラデルフィアなどでの数えきれない裁判です。
レニーは早く生まれ過ぎたのだ、とよく言われます。今なら彼くらいのことをしゃべってもなんでもない、あるいは逆に、彼がいたからアメリカでのポルノ解禁が10年早まったのだ、などなど-------。
またレニー自身は音楽家でも歌手でもなかったけれど、いわゆるロック世代の先導者のようにも言われています。ポール・サイモンが「僕はレニー・ブルースから真実を聞いた」と語り、またボブ・ディランも「自分が利口で、いろんなことを知ってると思っているなら、レニーを相手にしてごらん」と語りました。
こうしたことから、レニーを早く生まれ過ぎた一種の予言者、殉教者のように見る人もあり、だから体制の犠牲者として「誰がレニー・ブルースを殺したか」という発想にもなるのですが、この映画の最大の優れたところは、そういう月並みな罠に陥らなかったこと、と言っていいと思います。
人気絶頂の頃のレニーは、得意であり、自信満々です。そして警察に捕まり裁判が始まると、毎度クラブに張り込みに来ている警官にスポットライトを当てさせて客に紹介し、続けて猛烈な言葉をしゃべり、ついには彼の芸としての話は、まるで裁判闘争の報告のようになってしまうのです。
つまりは、一種のナルシシズム(自己陶酔)なのです。それが本当に客にとって面白いのか? この段階での客は、もうレニーが今日は話の途中で捕まるかどうかだけを、見に来ているかのようなのです。
まもなく、彼の仕事の場所はだんだん少なくなります。麻薬中毒がひどくなって、下半身裸のままで舞台に上がったレニーは、メロメロで支離滅裂な話しかできず、客はすっかりシラケてしまいます。そして、相次ぐ裁判に打ち込んだ彼は、学問もないのに万巻の法律書を独学し、大金を払ってテープ機械一式を買い込み、弁護士たちを解雇して単身で法廷闘争を展開しようとするのですが、かつて多くの客(傍聴人)を集めたこの"公演(裁判)"は、1966年4月18日、麻薬不法所持の罪を問われたロサンゼルス市高裁法廷だと言われます。
こうしたいたましい経過を、決して"予言者や殉教者の悲劇"としてのみ捉えなかったところが、私の思うこの映画の最大の特色だと思うのです。つまり、ある時は熱狂的で、ある時は誠に冷酷な客という怪物の存在を前提として、時に思わぬ大ヒットを生み、かと思うと思わぬズレが忍び寄っている-------という芸人の"栄光と悲惨"が、ここに鮮やかに、クールに捉えられていると思う。
このエイターテイナーを見る目としては、形式は随分違うけれども、さすが「キャバレー」を撮ったボブ・フォッシー監督です。むろん、これを一つの"芸人もの"と見ることが、1950年代末から1960年代前半のアメリカのショー・ビジネスの世界を全速力で走り抜けて死んだ特異な一人の人間を通して、"時代と文明"を考えることを少しも妨げるものではありません。
レニーを渾身の魂の演技で示したダスティン・ホフマンも、「真夜中のカーボーイ」と共に彼のベストの演技だと思うし、カンヌ映画祭で主演女優賞を受賞したヴァレリー・ペリンも実に素晴らしいと思う。彼女は実生活でもスキャンダラスな奇行でも有名だったらしいのですが、うまいというより、何かこちらにまつわりついて来るような存在感のある不思議な女優だと思う。
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