松本アニメの最高峰
一度完結した話の続編として素晴らしい答えを出している
この作品は100回以上観たが、何度見ても松本アニメの最高傑作だと思う。
もちろん、ツッコミどころはある。999好きで、何度も見たからこそツッコミたくなるのだが、それでも1979年の第一作目で完結しているはずの物語の続編を描くことは、監督のりんたろう氏は相当苦労なさったと思う。実は大人の事情で、この作品は前作の興行成績が良かったために続編の製作が決定されたものだそうなので、前作はこの続編ありきで作られたものではなかったのだ。それなのに、きちんと続編の体をなし、前作とあらゆる部分で対比させ、一つの結論を導いている点がすばらしい。
正直、謎は多いものの、近年のアニメでここまで重厚で完成度が高いアニメはそうあるものではない。
この作品はそういう意味では原作を超えているように思うし、大胆な設定にも驚かされる。999の真の答えは、この作品であると思っているファンも多いはずだ。
音楽、声優、ナレーションどれも重厚でハイレベル
原作者の松本先生はクラッシックにご興味がおありのようだが、この映画の随所に流れるクラッシック曲や、テクノなどの音楽は、どれもハイクオリティで、曲がかかっただけでどのシーンか克明に思い出せるインパクトがある。
999ではおなじみの野沢雅子さん、池田昌子さん、肝付兼太さんといった大ベテランだけでなく、ハーロックと言えばこの人だと今でも愛されている井上真樹夫さん、エメラルダス役の田島令子さん、鉄郎の父ファウスト役に江守徹さんが起用されていることに驚く。
ナレーションにも、FMラジオ番組のジェットストリームで当時有名であった城達也氏の声が本当にマッチしている。
これだけの贅沢な作品は滅多にないであろう。
物凄い冒険をしている作品
尺の都合などで原作の設定を変えるという事は、映画化においてはよくあることであるが、銀河鉄道999については、一作目の鉄郎のビジュアルを原作を無視して美男子設定している時点で大冒険であると言える。この作品を観た当初はテレビ版の影響もあって、こんなカッコいいのは鉄郎じゃないと思ったりもしたが、大人になって見て見ると、このビジュアルじゃないとメーテルとのほのかな恋が描き切れないように思うし、とても単純だが鉄郎が「かっこいい」に越したことはない。
後にも先にも、主役級のビジュアルを全く変えて映画化して成功した例などこの作品を除いて見たことがない。大胆なことをしているのに成功している稀有な例である。
また、死んだことになっている鉄郎の父が、実は機械帝国の幹部だったという設定も、ファンをびっくりさせた。原作には全くない設定であるし、のちに製作されるエターナル編でも全く無視されている設定のため、この作品のオリジナル設定なのだが、今では鉄郎の父と言えばファウストというのが999の絶対的事実なので、この作品の影響力の大きさを感じる。
ツッコミどころはある
作品の相対的な完成度としてはすばらしい作品だが、それでも999を知っているがゆえに突っ込みたくなる部分は多少なりある。
特に、鉄郎の父ファウストに関連する部分である。ハーロックによれば鉄郎の父とハーロックは古くからの友達のようで、かなり前に考え方の違いで袂を分かったようである。一作目でそれを、メーテルをはじめハーロックやエメラルダスは知っていたのだろうか?一作目でメーテルは、母の側近の息子と知って鉄郎を連れて行ったのか?また、その際、惑星メーテルが破壊され、プロメシューム側は大打撃を受けるわけだが、いったい幹部のファウストは何をしていたのか。
機械帝国の人事がどうなっているのかわからないが、当時ファウストは機械帝国の平社員であったが、息子の鉄郎がめちゃくちゃをしでかしたので、その落とし前を自分がつけるとプロメシュームに進言して幹部になったのか、全くよくわからない。メーテルの姿が鉄郎の母を生きうつしたものであることからも、どうも鉄郎一家とプロメシュームはつながりがあるのではと思うのだが、はっきりとは描かれていない。この「ご想像にお任せします」という感じがなんとも言えない、謎解きの面白さを与えてくれる。
また、鉄郎自身が今回の旅はわからないことばかりと言っているが、メーテルが前作に比べて多くを語らず、若干影が薄いのが気になる。そもそも旅に出てくるように仕掛けたのはファウストのようだし、メーテルは自分の力で母を始末するつもりだったようだ。偶然メーテルが自力で母を始末しようと思ったところに親子として白黒つけたいファウストの陰謀を知ってしまったのかもしれないが、メーテルとしては鉄郎との合流をどう思っていたのか、謎のままである。
究極のツッコミどころは、メーテルが母を滅ぼそうとしなくても、鉄郎が機械帝国にとどめを刺そうと思わなくても、サイレンの魔女が来れば滅びてしまったのではという部分である。
しかしこれは一種自然災害のようなものなのと、鉄郎との決闘に敗北したファウストの墓場としては、サイレンの魔女は必要だったのかもしれない。
一作目との対比
一作目の主軸は主にメーテルと母の対決であった。鉄郎の故郷地球で、鉄郎が旅立つメーテルを見送る。それが一作目であったが、二作目の主軸は鉄郎と父ファイストの対決である。最後はメーテルの故郷ラーメタルで、メーテルが旅立つ鉄郎を見送るのが印象的だ。
これは、意図してこういう構成にされたのだろうか?
999という列車を使った出会いと別れ、親との対峙と独立が一作目と見事な対比で描かれている。これに気づいた時に、元々完結していた一作目の続編として、このさよなら銀河鉄道999のストーリーの構成が、いかに優れているか驚嘆したものである。
一作目が良作であったために制作サイドもものすごいプレッシャーがあったと思うが、すでに結論が出ている作品に、鉄郎の父という存在を出してファンを驚嘆させ、さらに本当に納得のいく結末を作ることがいかに大変か。この作品はそれを見事に成し遂げている。
要所要所が松本作品のカッコよさの集大成
序盤の老パルチザンが自らを犠牲にしてまで線路のポイントを修正し999を無事見送るシーンをはじめ、数々の松本零士らしさを感じる、信念に基づいた生き方のカッコよさを感じるシーンが多くあり、クラッシックのBGMがさらにそのカッコよさを際立たせている。
そのすべてに、松本零士作品らしいかっこよさがあり、非現実の世界であっても、自分もこの作品の登場人物のように、何か信念のもとに生きたいと思わせるような魅力がある。
近年、作品の個性が希薄化し、絵柄が似たような作品、似たような感動ポイント、等身大すぎて共感はできるけど夢がないといった現象がアニメ界にある中、さよなら銀河鉄道999は、アニメらしい、漫画らしい、本当に憧れる、夢や理想を、アニメという媒体を見事に駆使して表現しつくした作品だと言える。なかなかここまでのレベルのアニメ作品は現れない。技術的にも当時では最高水準であったと思うが、今観ても古臭い感じがしない。メカニックの点においても、「昔に描かれた未来」という古臭い感じではなく、まだまだ追いつかぬ未来がしっかり描かれていると感じる。
この作品は、松本零士作品のみならず、日本のアニメ映画のすべての作品の中でも、最高峰のクラスに君臨し続けるだろう。
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