夏の思い出を描く名作『海がきこえる』
王道だからこそ
都会から引っ越してきた転校生との甘酸っぱい思い出を描いている作品ですが、このありそうで無いような、あったらワクワクしてしまいそうなオーソドックスにも思える恋物語だからこそ引き込まれてしまうのだと思います。
その中には、複雑な家族関係や予期せぬ展開などを要所要所で描いている事でオリジナリティもありますので、ドキドキしながらも安心感がある小説だと思います。
地元から遠く離れた場所で卒業後に再会するという物語の作り方もど真ん中を突くストーリーで爽快な気分になります。
学生時代のリアルな姿を描いた作品だからこそ、余計な邪魔の無いシンプルな構成に好感がもてるのだと思います。
登場人物の魅力
この物語に登場する二人の主役はそれぞれ魅力的な人物像に描かれています。
杜崎拓は一言で言うと普通の男子高校生です。
強いて言えばお節介というか人がいい感じの人間だと思います。
そんな何処にでも居そうな男子高校生が主役だからこその魅力があると思います。
彼が遭遇する出来事は少し特殊な気がしますが、杜崎拓のいたって普通な存在感が物語をリアルに感じることができ、彼に気持ちを投影しながら読み進める事ができました。
普通というと悪口に聞こえるかもしれませんが、彼のような存在がとても大事でこの小説には欠かせない存在になっていると思います。
そんな普通の青年を振り回すヒロインの武藤里伽子は、杜崎とは不釣り合いとも思える様々な表情があります。
強がる姿や無邪気な姿など、彼女の喜怒哀楽に同情したり応援したりと自然に引き付けられてしまう魅力があります。
田舎育ちの杜崎拓から見たら、武藤里伽子は色々な乗り物がある遊園地のような感覚があったのではないかと思っています。
物語の中でも杜崎拓が次の展開を楽しんでるようなシーンもありますし、普通の男子高校生から見たらとても魅力的な出来事なのだと思います。
容姿も綺麗な武藤里伽子ですから、振り回されても本望だと思いますけどね。
個人的にも武藤里伽子は理想的な性格をしてるかもしれません。
この性格の違う二人だからこそ、良いバランスの物語になっているのだと思いました。
挿し絵の良さ
物語の合間に描かれている挿し絵にも、この小説ならではの良さを感じました。
描かれている情景や人物の心情が伝わってくる表情などが物語に深みを与えていると思います。
武藤里伽子を描いた挿し絵は特に注目してしまいました。
その時の彼女の心境を掴む為には必須だと思います。
絵のタッチも柔らかい感じで少しぼんやりとした描き方になっています。
高校時代の杜崎拓の思い出を描いた物語なので、ぼんやりとした記憶を呼び覚ましたような曖昧さがあり、それでいて武藤里伽子の表情の細部は鮮明に記憶に残っているという、杜崎拓が武藤里伽子との思い出を大切にしている気持ちが伝わってきますし、杜崎拓の記憶をそのまま挿し絵に表現されている気がして、この作品にぴったりな絵になっていると思いました。
あのような絵のタッチになったのが意図してなのか偶然なのかは分かりませんが、この作品にはなくてはならない物だと思います。
私自身、こんなに登場人物の心情やその絵に至るまでの背景などを挿し絵から感じた事が無く、ここまで強い印象を受けたことがなかったので感動してしまいました。
物語は勿論ですが、挿し絵にも注目してもらいたいと思っています。
日常の描き方
この物語では武藤里伽子の存在感が大きく、派手な出来事に注目してしまい印象も強く残ってしまうと思います。
その一つ一つの出来事はワクワクしながら読んでいますが、高校生のありふれた日常の風景も大切にしている小説だと思いました。
夏休みにバイトする光景だったり、恋に左右される純粋な高校生の姿だったりと、誰にでも経験がありそうな思春期の日常風景が自然に描かれていて読んでいて心地良い気分になりました。
多くの人が共感できる高校生ならではのあるあるネタが沢山あることが物語を身直に感じさせてくれて、読み手の心地良さに繋がっているのだと思います。
特に私が共感した所は、杜崎拓が夏休みにバイトを頑張る動機です。
修学旅行の旅費を稼ぐ為、バイトを頑張る杜崎の姿には大いに共感しました。
高校生が夏休みにバイトをする事はよくあると思いますが、その動機が修学旅行の為という設定には強く印象に残りました。
杜崎拓の夏休みのバイトは修学旅行で二人が話すきっかけになった事柄ですから、物語としても大事な設定なのは間違いありませんが、ごく自然な日常としてさりげなく描かれていると思いました。
そんな些細な高校生の日常の光景を一つ一つ丁寧に描くことで登場人物の全体像がはっきりと感じ取ることができましたし、より親しみを感じながら物語を楽しむことができました。
ストーリーの面白さに加え、日常の描き方も緻密だけど自然に描かれていて、日向ぼっこをしているかのような暖かさに包まれた素晴らしい作品だと思います。
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