荒涼たる現代の絶望的な孤独と不毛の愛を、悲痛な美しさで描く戦慄的なニヒリズム 「ラストタンゴ・イン・パリ」
とにかく、このベルナルド・ベルトリッチ監督の「ラストタンゴ・イン・パリ」は凄い映画だ。そして、その凄さは"大胆なセックス表現"にあると言われている。だが、もしそうした興味で観てしまうと、肩透かしをくうのではないかと思う。
この映画は、かなり高度な、知的な映画なのだと思う。荒涼たる現代の絶望的な孤独と不毛の愛を描いていて、それは悲痛な美しさであり、戦慄的なニヒリズムだ。その意味では、確かに凄い映画なのだ。
一人のダメな中年男(マーロン・ブランド)が主人公だ。そして、彼の相手は奔放で無邪気な、だがファーザー・コンプレックスの若い娘(マリア・シュナイダー)だ。男の名はポール、女の名はジャンヌ。二人はお互いにアパートを探して、偶然に同じ空き室で出会う。
そして、沈んでいた男は突然、衝動的に動物的な荒々しさで女を抱き、娘もまた、それに激しくこたえる。こうして彼らは、男が借りた部屋で、男の提案通り、名乗りあわず、住所も知らず、家庭のことや仕事にも触れず、一切を行きずり同士のまま、ただセックスの結びつきだけで、出会いを重ねていくのです。
荒れた部屋、汚れた壁、割れた鏡、寒々とした空間。それは、現代の荒廃を象徴しながら、同時に一般社会から隔絶した、過去も未来も存在しない"無の世界"だ。その孤絶の片隅で、彼らは雄と雌に立ち返って、肉欲の快楽に一つになる。いや、だが二人は、本当に一つになれはしない。彼らの行為は、ひどく虚しい。画面に漂うのは、猥褻どころか、"索漠たる虚無感"なのだと思う。
この中年男ポールは、いわば"失われた世代"だ。アメリカ人で大学出で、さまざまな職業を遍歴して、世界を放浪した。ボクサーになり、役者になり、ボンゴをたたき、南米で革命家を気どり、日本で記者をやり、それからタヒチで暮らし、フランス語を覚えてパリに来て、小金を持った安宿の女主人と結ばれ、女房に養われるヒモ亭主となったけれど、彼女は下宿人の冴えない中年男(マッシモ・ジロッティ)と密通したあげく、浴槽で手首をカミソリで切って自殺してしまった。
ひとり残された彼はいま、道を歩きながら涙をこぼすのだ。解剖から帰って来た、花に埋もれた妻の遺体にとりすがり、くどくどと繰り言を述べて、おいおい泣き出す、哀れな哀れなダメ男なのだ。
そんな彼が、あのアパートの一室でだけ、猛々しい野獣になって、若い娘を征服し、神を否定し、人間関係を拒否して、野卑な言葉を吐き、破廉恥な行為に溺れることで、自分の存在感を、男としての充足感を確かめるのだ。
一方のジャンヌは、中産階級の娘で、亡き軍人の父を熱愛する幼児性から抜けきれない。小さなブティックを持ち、TVプロデューサーの婚約者(ジャン=ピエール・レオ)がいるけれど、彼はひ弱で軽薄で、まだ人生を知らぬ、頼りない若者だ。だから彼女は、名も知らぬ中年男のポールに惹かれたのだ。
ポールの深い孤独の翳りに、彼の暴力的な男らしさに------。多くの女性の深層心理に、父親に対する近親相姦願望が、ギリシャ神話の昔から秘められているとするなら、ジャンヌもまた、父親とのダブル・イメージで、ポールに恋してしまったのかもしれない。
そうした二人が、"愛"を拒んだ動物的な行為を繰り返しながら、けれどやはり、次第に愛の優しさがこぼれ落ちて、心と心が求めあっていく、切ない恋しさがたまらなくいい。
だが結局は、男がぶざまな中年男の現実の姿をさらけ出し「結婚してくれ」と彼女を追いかけた時、ジャンヌの"幻影の恋"は破れて、彼女は父の遺品の拳銃で、彼を射殺してしまうのだ------。
最後に男が「僕たちの子が、僕たちの子が------」と残すつぶやきは、彼が社会の倫理に反逆しようとしながら、しょせんは、家庭に憧れ、世俗の愛に飢えた平凡な男の、"悲痛な孤独の叫び"なのだ。
そしてジャンヌは、父のイメージを守り通すためには、この"落ちた偶像"の中年男を、殺さなければならなかったのだと思う。描写は確かに大胆だけれど、これはむしろ、古風なラブ・ストーリーというような気もしてくる。その優しさにおいて、その虚しさにおいて------。
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