主人公ジェフの深層心理に潜む、出口のない囲いに感じるスリリングな戦慄「裏窓」
ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住む報道カメラマンのジェフ(ジェームズ・スチュアート)は、カーレースを撮影中に脚を骨折し、6週間も車椅子の生活をしている。退屈のあまり裏窓から、向かい側のアパートの部屋を覗いていると、ある雨の夜、住人のセールスマンが、トランクを持って3度も出入りする。そして翌朝、長患いをしているその妻が、消えていた。ジェフはセールスマンが妻を殺したに違いないと推理する-----。
このサスペンス・スリラーの神様アルフレッド・ヒッチコック監督の「裏窓」は、怪我をしてギブスをはめたカメラマンのジェフが、退屈しのぎに裏窓から向かい側のアパートを覗き続けているシーンから始まります。
普通なら、本を読むとか、ラジオを聴くとか、恋人がいるのだから、彼女と時間を過ごすとかするのだろうに、どうもこのジェフという人間が、ひたすら「見る」ことにこだわってしまうのは、対象を視覚で捉えるカメラマンという職業病らしく、コーネル・ウールリッチの原作では、主人公が単にスポーツマン・タイプの男となっているだけですが、ヒッチコック監督は、彼をカメラマンにすることで、事件の目撃者(実際には目撃していませんが)の、観察力を説得力のあるものにしているのだと思います。
更に、原作では相棒が男の看護人であるのを、女性二人に振り分け、女性の"日常生活の理論"を語らせ、結局それが殺人事件であることの裏付けにつなげているのです。もちろん、ヒッチコック監督好みのブロンドのクールビューティ、グレース・ケリーを使うためでもあるのは言うまでもありません。
そして、中庭をめぐるアパートには、いろいろな住人が住んでいるもので、暑いのでテラスで寝ている熟年夫婦、バレエのレッスンに余年のない若い娘、ブラインドを下ろしたままの新婚さん、パーティ好きの作曲家、男友達のいないミス・ロンリーハートとあだ名を付けたオールド・ミス、いつも男に取り囲まれているグラマーなダンサー、子犬を子供のように可愛がっている中年夫婦、太っちょでお節介やきの彫刻家の中年女、それに病弱の妻を抱えたセールスマンなどなど------。
盛夏なので窓は開けっぱなし。クーラーの普及していなかった時代、1954年のことなのです。ブラインドかカーテンくらいは閉めているはずだと思うのですが、ヒッチコック監督はサスペンスを生むためには平気で嘘をつくのです。
看護婦のステラは、物の道理がわかった中年の女性で、「理性ほど厄介なものはないわ。あなたのサンドイッチに、常識をはさんであげる」などと、皮肉られる始末で、さすがのジェフも歯がたたない。そのステラに「覗きは6カ月の禁固刑よ」と言われても、彼は覗きをやめません。
そのうちにジェフは、ある部屋に住む大柄な男の行動をいぶかりはじめる。この男は妻を殺したのではないだろうか。そうに違いない。しかし、車椅子のジェフは自分では行動することができないから、カメラに望遠レンズを取り付けて、更に細部を見ようとし、ますます覗きがこうじていきます。やがて、ファッション・モデルをやっている恋人のリザ(グレース・ケリー)や看護婦のステラもジェフに協力するようになるのです。
この「裏窓」では、映画が始まってそれほど時間の経たないうちに、犯罪者とおぼしき人物が提示されます。ある夜、どこかの部屋で突然、ガシャンという音と女の悲鳴が聞こえた後、大柄な男がトランクを抱えて出ていき、更に翌日は、その男が肉切り包丁やノコギリを新聞紙でくるんでいるのが見えたし、病床にあった妻の姿が消えたので、ジェフは奴が妻を殺したに違いないと推理するのです。
ジェフは友人である刑事に連絡をとり、アパートに来てもらい、殺人事件が起きたことを話すと「これだけ窓に囲まれて、殺人を犯すか? 殺人はそんなに簡単じゃない」とまるでジェフの話を信じてもらえないのです。
この映画では、犯人が誰かが問題ではなく、初期の段階では、本当にあの男は殺人を犯したのだろうか、やがて、殺人を犯したことは間違いないが、どうやったらその証拠をつかめるだろうかが鍵になっていくのです。
殺人は単純な手口であればあるほど発覚は難しいものだ。時に覗きに使う望遠レンズには、向かい側のアパートが映っている。ヒッチコック監督お得意のレンズに映る景色だ。「汚名」の競馬場でも、カメラは常に主人公たちを映し、レースそのものを見せずに、望遠鏡にレースを映して見せた、その手腕。「裏窓」から、向かい側のアパートを据えるカメラは、常にジェフの視座から外れない。ジェフも、カメラもたった一度を除けば、部屋の中から一歩も出ないのです。その一度とは、ジェフが殺人犯に狙われて窓から墜落してしまった時で、ジェフは窓の下だし、カメラは中庭に出て、初めてジェフの住むアパートの裏側を映すのです。
しかし、望遠レンズで遠く拡大して見ることはできても、遠くの音をとらえることはできない。したがって、ステラが運送屋のトラックを見に、通りまで出た時、恋人のリザとステラが庭の花壇を掘り起こして、何もないと知らせる時、そして、リザが大胆にも、犯人の部屋に忍び込んで証拠の指輪を見つけた時、このいずれもジェフの耳に、彼女たちの声は届かないので、無言となる。頼れるのは、「耳」しかないという状況のワクワクするような面白さ。
だが、建物と建物の間からは、表通りが見える。イエローキャブも通るし、子供たちが散水車の後を裸で追いかけるのが見えたり、ミス・ロンリーハートが着飾って独り、通りの向こうのカフェに座っているのも見える。そして、アパートが囲むスクエアの外は、ジェフにとって今は、果てしない世界のようでもあるのです。
だから、映画の中盤で、犯人をこのスクエアから出すまい、逃がすまいと躍起になるジェフの、異常とさえ思えるほどの執拗さは、一時的に脚が不自由なことで、"囲い"の中にとらわれている自分の独自の"箱庭的世界"を、裏庭から眺められる、対面と両側のアパートの範囲に構築している。
箱庭という彼の創造した舞台では、人間どもが、彼の許容する範囲での動きは許されても、その"囲い"を外れようとすれば、ただちに見つかってしまう。それが犯人であるセールスマンなのです。まるで、カフカの「城」の、見えているのに行き着けない場所の逆のパターンのようでもあり、フェデリコ・フェリーニ監督の「女の都」と相似しているようでもあるのです。
だから、ジェフの深層心理に潜む出口のない"囲い"に気付く時、スリリングな戦慄を感じてしまうのです。この「裏窓」には、多くの心理的な意味や、映像効果が含まれており、ほとんど動きのないジェームズ・スチュアートの演技が、それらを一層盛り上げているのだと思います。
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