生きていれば、何度でもやり直せる
マサルとシンジの分身、「南極55号」の視点
この映画のひとつの特徴に「視点」があげられる。冒頭の漫才コンビのカットでは、舞台袖から彼ら二人と、それを見守る男一人の背中を映し出している。彼らの舞台が正面から撮られることはない。このどこか違和感のあるカットは、観客の数、寄席の規模、彼らの正体や人気度を隠すという意図以上に、見る者を不安にさせる要素を持っている。漫才師二人が何者であるのか全くわからないわけだし、その直後に出てくる主人公二人の再会シーンとどう結びつくのかも想像できない。
似たようなカットが高校時代の回想(これが大部分を占めているわけだから、回想という言い方はどこかおかしいかもしれないが)シーンの初めにあらわれる。授業を受けている生徒が教室の窓から主人公二人を見下ろすカットである。自転車の二人乗りをして校庭を走り回る彼らを見る生徒の視点。これが、冒頭のカットと類似性を持っている。
さらにこの二つの視点はラストでも繰り返されることになる。成功した漫才コンビの公演を袖で見守るマネージャーらしき彼は、回想でたびたび登場した不良三人組の一人であることがわかるのだが、ここで初めて「見守る」側の視点、もっと言えば「マネージャーとして生きること(生きがい)を決めた」彼の晴れやかな顔が「南極55号」というコンビ名とともに映し出されるのだ。
校庭を二人乗りで走り回るマサルとシンジもまた、一人の生徒に教室の窓から見下ろされる。その後に続く彼らの担任であった森本レオが老けメイクで「あのバカども」と呟くシーンでノスタルジアが喚起される。こうして高校時代の回想では欠いていた「見守る者」がアップで映されて初めて、漫才コンビ、マサルとシンジがそれぞれ「見られる者」の立場を得る。冒頭の違和感のあるカットもようやく生き生きし始める。成功者と落伍者をともにステージは違えど舞台に上げて「見られる者」にし、それぞれに「見守る者」を配置することで同じ扱いにしている。
元はといえば彼らの成功は主人公に与えられたものと言っても過言ではなく、それはマサルとシンジの違った形での成功、もっと言えば彼らが生み出した成功なのではないだろうか。そうすると冒頭で袖ごしにのみ流された漫才コンビの晴れ舞台は、マサルとシンジの生み出すひとつの成果を予告していたものになる。ラストで正面から映し出される大盛況の彼らの舞台は、マサルとシンジへの賛歌のように優しくあたたかい。主人公二人と同じ視点で映し出された彼らは、脇役の意外な成功という枠を超えた主人公二人の分身のようなものなのだ。
このように最初と最後がつながりループしていることがこの映画のタイトルにも関係してくる「回帰」というテーマを端的に表しているともいえるだろう。
三人称
主人公ほか登場人物のエピソードが、このように「見守る者」のフィルタを通すことによって三人称的視点で描かれているのは興味深い。たけし自身が出演する映画のほとんどは沈黙のモノローグのように、淡々としながらも全てのシーンが彼演じる主人公の元で一点につながり、物語の手法としては三人称の形をとっていながら(小説と違い映画の場合、一人称の手法はあまり多く見られない。「刑務所の中」などがそれにあたるか)、「その男、凶暴につき」の我妻、「ソナチネ」の村川、「HANA-BI」の西、「BROTHER」の山本と、全てが「ある一人の男」の生き様、死に様を描くためのストーリーとなっている。性質上一人称に近い。だが「キッズ・リターン」の場合はマサルとシンジという二人を主人公に立てながらも、ヒロシや漫才コンビ、不良たちのストーリーを彼らと関わりのある範囲以上に語っている。マサルとシンジそれ自体が対比されるものでありながら、彼らと平行してまたヒロシや不良たちが着々と歩みを進め、それぞれの結末(映画の中での)に向かって邁進しているのだ。
「キッズ・リターン」は最初と最後に他者の視点から人物をとらえることによって物語全体を三人称に仕立てている。これは個人的な意見だが、一人称性質の作品はとかく不安だ。主人公の心情、動機、思惑が手にとるようにわかってしまい、このままでは主人公は死んでしまうのではないか、という思いに駆られることが多々ある。三人称の場合はそれが少ない。主人公と距離をとることでその心情等が直接的にはわからないようになっているからだ。急に死んでしまえばそれは未消化になってしまい、腑に落ちないまま席を立つことになる。
複数の登場人物、それぞれのエピソードを三人称的視点で突き放して撮ったこの作品は、物語が一人の人間につながることもなく、ある一人の登場人物の心情を追っていくような代物でもない。それぞれのエピソードも一見ばらばらだし、ラストがどうなるのかも予測しにくい。「高校時代の同級生」というつながりがある彼らだが、卒業後に絡みがあるのはヤクザの幹部に成り上がったマサルとボクサーになったシンジのみである。
だがそれぞれのエピソードは巧みに影響し合い、絡み合っている。この映画でおもしろいのは「人とのつながり」がいかに人生に影響を与える大事なものであるか、ということがさまざまなエピソードを通して描かれている点である。マサルがヤクザの道に走ったのはラーメン屋で会ってしまった親分に憧れたからであり、さらにボクシングの才能がないとシンジに気づかされたからである。シンジがボクシングを始めることになったのはマサルに強制的にやらされたせいだが、そのおかげで才能が開花することになる。だが同じジムの先輩ボクサーで、悪魔のようなアドバイスをして新人を潰してしまうハヤシと付き合うようになってから、どんどん落ちこぼれていく。ヒロシが死んでしまったのも、最初に就職したハカリの会社であの同僚と出会ってしまったから、だろう。
さまざまな登場人物、ひとつながりの三人称なエピソードを見るにつけて、思わずにいられないのが、人生の因果というものだ。才能の開花、良い環境、幸せな未来、それらは全て自分の行動ひとつで得られるかどうかが決まってくる。シンジがだめになったのは意志の弱さのせいだが、そもそもボクシングをやるはめになったのも同じく意志の弱さのせいなのである。マサルが制裁を受けたのも調子に乗りすぎたせいであり、ヒロシが死んだのも同僚と一緒に会社をやめてタクシー運転手になってしまったからだ。才能がある者、ない者、できた者、できなかった者、それぞれに道が与えられるが、その道を作れるのはその人間自身だけなのだ。彼らはそれぞれ成功できる環境を得ることができていながらも自らの手でその可能性を潰してしまった。成功できたのは、地味な漫才コンビのみだ。
人生、「だめになった」も「うまくいった」も他人が客観的に決められるものではなく、同様に主観で決めるべきものなどでは絶対にない。だからこその「まだ始まっちゃいねえ」なのである。何の因果で成功や堕落が飛び込んでくるのかわからないのだ。武がこの映画で現した人と人のつながりの重要性、人形劇のようなカメラから突き放されたストーリーは、感情移入を許さないほどの隙もオリジナリティもないエピソードを描いた「Dolls」を思い出させるが、それよりももっと人間的で、希望に満ちた人生賛歌になっている。
この作品が武の他の多くの一人称的作品と決定的に違うのは、一人の男の特殊な人生ではなく、一般にあてはまる普遍的な人生観を描いているからだ。死の淵から生還した彼は、「生と死」という腫れ物テーマに直接触れることなく、軽いタッチで淡く、優しく、遠くから、人生を描いて見せた。その姿勢がこの作品を三人称にしたのである。
対比としてのヒロシ
「キッズ・リターン」で本来死ぬべき、というか死んでもおかしくないのはマサルであった。組の若頭が九州に行っている間にシマを取って出世したマサルは、組長が殺された際に会長にくってかかり、若頭から手酷い制裁を受けることになる。本来の北野映画なら確実に死んでいるであろう流れだ。だがマサルは生き延びた。そうしてシンジと共に校庭という始まりの場所に帰ってくるのだ。マサルが死ななかった違和感とともに、ヒロシがあまりにあっけなく死んでしまったことにも同様に違和感を覚えた。武は何故マサルではなくヒロシを死なせたのか。
マサルとシンジが共にボクシングをやりながら、才能を開花させたのはシンジであり、マサルではなかった。マサルはそうしてボクシングをやめ、ヤクザという別の道で成功しようとする。その後二人とものし上がり、それぞれにピークを迎えたところで再会すると、マサルは「おまえがチャンピオンになって、俺が親分になったら、また会おうや」と言って去っていく。二人はその後逆に仲良く一緒に転落していくことになるが、彼らが成功の輝きを放っていた一瞬の間にも悲惨な姿を描かれていたのがヒロシである。
ヒロシは片思いの相手であるサチコと結婚を果たし、就職した。ヒロシにとって、サチコとの結婚が最大の成功であり、人生のピークであったと思われるが、二人の結婚生活については全く描かれることがない。ヒロシとサチコの結婚についてはサチコと喫茶店の女主人の間で二言三言会話がなされるのみで、それ以上の描写は全くなされない。ヒロシとサチコが共に画面に収まったのが高校時代の喫茶店(片思い中~カップルになりかけるところ)のみで、晴れて一緒になったあとにバラバラにしか描かれないのが不思議だ。これはヒロシの純粋な片思いが「結婚」という枠に収まらない、奔放で無謀とも思われるほどイノセントなものだったからこそ美しいという暗黙のメッセージなのだろうか。彼が生き生きしていたのはサチコに人形や手紙を渡し、映画に誘い、就職の報告をする喫茶店のシーンだけだった。
ヒロシは最初に就職した会社で上司にどなられ、もっと楽になろうと言う同僚とともにタクシー運転手の道を選んだが、楽かと思われたタクシーのほうがもっときつい。ヒロシのタクシーに乗った客が「タクシーの運転手は楽でいいよな」と言いながら、クビになってタクシー運転手になった昔の同僚の話を部下とする場面はひどく残酷だ。ヒロシと彼をそそのかした同僚は無知で、さらにヒロシは強い意志を持たなかった。自己というものを持たなかった。彼は「サチコの夫」であり、「ある男の同僚」であり、「ある客が乗ったタクシーの運転手」でしかなかった。彼が自発的に行動したことといえばサチコへのアプローチのみで、その後は転がり落ちるように死に向かって走っていく。最後まで離さなかったあの人形は、もはや一途な愛情の象徴ではなく、生き生きと「自分」を生きていた過去の輝きなのだ。彼が死んでも、あの人形は壊れずに、彼の死など知らないようにただそこにあり続けるのだろう。
ヒロシは無知で自分の意志を持たず、流されやすい人間の代表、そして「マサルやシンジがそうなっていたかもしれない」運命を象徴している。ヒロシの意志のなさはシンジと酷似しているし、無知はマサルに重なる。マサルが助かりヒロシが死んだのは、そうなるべき因果などではなく、「生と死が紙一重」であることを表すためだったのではないか。
比較的まともな人生を歩んでいたと思われるヒロシの死は、「一見順調な生活に潜む死」、まさにバイク事故のような予測できない死との衝突を示しながらも、マサルやシンジとの「対比」において彼ら主人公の未来、または運命を身代わりに引き受けた反面教師のようなものなのだ。
主人公であるマサルとシンジの間に対比の関係はほとんど生まれていないと言っていい。彼らは運命共同体であり、違う道を行きながらも同じ山を描いてまた元の場所に戻ってくる。ボクシングとヤクザという違いはあれども、彼ら二人は岩によって一時的に分かれた川の流れのようなもので、結局は海に行き着く仲間なのだ。
事故を乗り越えた死生観とこの映画に流れるテーマ
この映画には自転車がよく登場する。シンジの移動手段は自転車で、昔も今もそれは変わらない。自転車というものは自分で漕がなければ倒れてしまい、進まないわけだ。つまり倒れないためには漕ぎ続けなければならない。これはそのまま人生のメタファーともいえるのではないだろうか。
シンジは常に受身だ。マサルに「ボクシング」という道具を与えられ、しばらくはそれに打ち込むが、兄貴分であるマサルを超えてしまい、マサルがやめてしまうとシンジもそれにならおうとする。会長に、もう少し続けてみろ、と諭されて結局そうするのだが、ここに彼の意志の弱さと流されやすい性質が現われている。だが彼がいつも乗っていた自転車は受身では決して扱えない小道具である。彼の移動手段が電車やバス、徒歩ではなく自転車であることが、この映画のテーマを端的に表しているように思える。
自転車はまた、「遊び」という重要なモチーフを示す際にも使われるが、これも同様、「遊び」を「生」の象徴としてとらえていた「ソナチネ」を考えれば理解できるだろう。マサルとシンジの他愛のない、危なっかしい二人乗りは、若さ故の無鉄砲さ、前が見えない=未来が見えないこと、行くべき道が決まっていない若者の危うさを象徴している。ただ「ソナチネ」と異なるのは、「遊び」が「死の淵で輝く生」であり、儚く消えかけているからこそ美しく尊いものとして描かれていたのに対し、マサルとシンジの「遊び」はそれ自体に輝きを与えられていない。見ていてすがすがしいものではなく、危なっかしく、くだらなくさえ思える。ここで彼が「遊び」に封入したのが、生とも死とも少し離れたところにある、ただ進むしかないということ、何度終わっても生き続けなければならないというだけの事実であることがうかがえる。ふらふらしながらも、ぐるぐる同じところを回りながらも、結局は「進む」しかない人生を象徴していたのである。
ラストに二人乗りをするときには、この危なっかしい遊びは安定した、普通の二人乗りになっている。シンジはまっすぐ前を見据え、力強くペダルを踏む。マサルはシンジにもたれかかるようにしながら、あの印象的なせりふを呟くのだ。
「再生」をテーマにした映画だが、武自身が「リハビリのようなもの」と評するこの作品は、彼にとっても、それを見る我々にとっても、「いつでも好きなときに始められる可能性」を示した、人生の落伍者を許すような無言の優しさに満ちたものとなった。
彼がこの先、死=生に対する哲学を持つための布石となったのが「キッズ・リターン」だ。どんなに挫折しても、堕落しても、生きていれば何度でもやり直せる。武は「生きることにどれだけの価値があるのかという問題を考えて生きていくことに価値がある」のだと事故後に語っている。「生きてることってすばらしい」という映画ではない。人それぞれの生き方、死に方、それを全て肯定し、もう少し生きること、死ぬことに対して意識を向けてみてくれないだろうか、というメッセージを込めた作品なのである。
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