月光条例の考察
おとぎ話はあくまでおとぎ話風にしている。
藤田和日郎先生特有のキャラクターに対する絵の細かさ、背景のこだわりが魅力的だが、おとぎ話の紹介では最大限にデフォルメにし平面に見せている。これはおとぎ話からキャラクターが飛び出る時の立体的な絵をよりリアルに見せるためで、また少年サンデーに連載されていたため、低年齢層でも一部見やすくしているのではないだろうか。ただ、藤田先生の作品は、アクション、迫力重視なので漫画を見る人は画力があると分かるが初めて見る人に取っては下手くそ、汚い、と思われるかもしれない。
月打<ムーンストラツク>と極印
青い月の光でキャラクターが凶暴になり暴れまわるが、まず目の中心が左側が欠けてる三日月になる。極印を受けた月光や月光条例者の印は右側が欠けた三日月となっている。月光条例を行い月打を打ち消すというのは、青色の三日月に黄色の三日月を重ねることにより、緑=平和にするという意味を持っているのではないだろうか。
月打による消滅<デスアピア>が発生するとおとぎ話の登場人物が本ごと消滅してしまい、誰からも忘れられてしまうが月光が登場人物を覚えていたのは月光条例の主人公であり極印を持つヒーローとして舞台が用意されていたからだと思われる。
月の使者を追い払う時、月光は月打によりパワーアップが出来き、追い払いつつも月光は月に取り残されてしまった。月光条例という作品のお話を主人公の月光が暴れ回りストーリーを壊し、別のエンディングを迎えたからなのではないだろうか。
そもそもおとぎ話のキャラクターとはそもそも何なのか?
おとぎ話のキャラクターは読み手(人間)に読まれることで力を得て本の存在を維持することが出来ている。だが、自分たちが誰に作られたかは全く分かっていなかった。人間が食べ物を食べ、寝て、知識を付ける、誰が人間を作ったか全くわからないところから実はおとぎ話のキャラクターは人間となんらかわりのない存在であり、月打によってちょっと発想力が変わりルールやしがらみに囚われなくなり暴れまわる、たとえ自分が消えようがやりたいことをやり、欲望に忠実になる、どれも人間臭いものである。おとぎ話のキャラクターが本から飛び出した後は衣装はそのままといえ人間と見た目が変わらないのも人間と同じように見せるためではないだろうか
おとぎ話のキャラクターとは実は身近な存在でもっと違う点で見て欲しいという藤田和日郎先生のメッセージではないのかと考える。
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