ヒラコー節は取り扱い注意?
何かと伝説の作品
執筆十年、全十巻と、遅筆極まる連載スタイルでありながらも、その傑出した面白さとセンスで人気を集めて伝説となり、未だ根強く愛され続けている「ヘルシング」。その本番は、5巻の最終盤から始まるロンドン大戦争から始まるものであり、「ヘルシング」への評価のほとんどがそこからのものである。だがしかし、そもそもこの漫画は、それまでの準備期間からして秀逸であることも忘れてはいけない。もちろん「ヘルシングとはなんぞや」と問われれば、それはロンドンにて勃発する、剣と魔法と吸血鬼とガトリングとナチスのファンタジーバトルなり、と答えるのは当然であり、漫画の前半部分は、そこに立つ役者たちがいかなる者どもかという説明、すなわち導入でしかないだろう。のちのちの盛り上がりから見れば、「伊達男」だの「ルーク・ヤン兄弟」だのというのは、小粒であったと表現されてもおかしくはない。が、しかしながら、それは最後まで読み切ったうえでの比較から生まれる差であって、この漫画の前半部分は、間違いなくそれ単体で成立するくらいの面白さを備えていたのは確実である。事前知識無しで本作を手にとった筆者は、最初、「ヘルシングは、順次出会う強敵たちと順次戦っていく王道バトルものなのかな」なんて思ったりもした。「探偵ものの事件をバトルに変えたもの」と言ってもいい。それがまさか、一つの決着へと一直線に向かっていく伏線回収型一発勝負ものだったとは……その手の漫画は、普通、導入部分があまり面白くなかったりする。一度本番が開始されれば、それまで用意してきた伏線たちが怒涛の勢いで暴れまわる名作として記憶に残るものであっても、大抵その手前まではイマイチだ。逆に言えば、前半がつまらない有名漫画は終盤が期待でき、前半が面白い漫画は多分ずっとこんな感じだろう、と、並みの頭では予測してしまうわけだ。それを見事に裏切ってくれたのが本作、「ヘルシング」である。
100点満点のキャラ紹介
何かとヒマになってしまいがちな導入部分でどれだけ読者を引っ張り込めるかというのは、作家と言われる人々が抱える永遠のテーマなのだろうが、この「ヘルシング」は、それを濃すぎるキャラという方向性で突破した。登場人物が、どいつもこいつも、登場するというただそれだけで読者の目を引くレベルで尖っているために、単なるキャラ紹介が異様なまでに面白いのだ。これこそが、本作が導入から楽しめる何よりの理由であるのだろう。そもそも導入というもの自体、存在理由の半分はキャラクターの紹介のためにあるものである。だとすれば、本作の導入部分は満点と表現されてしかるべきだろう。まずもって際立っていたのが主人公だ。本作の前半は主に、彼の強さ・異常さを示すターンである。彼がいかに不死で、いかなる思想を持っているか……それがあらかじめ示されていたからこそ、絶望的な戦線の中の彼の帰還は胸踊り、散り様は美しかったのだ。当然、他のキャラ達も面白い。物語に深く関わるアンデルセン・マクスウェル・少佐などなど、一度見たら忘れられないキャラクターたちが目白押しである。この、導入部分が完璧である点と、その後の展開が読者の期待を上回るほどのレベルであったことが、本作が伝説的作品となりえた理由なのだ。
セリフ回し
「ヘルシング」……というよりも、ヒラコーこと平野耕太先生といえば、独特のセリフ回しが有名である。少佐の演説など、そらで唱えられる人がこの世に何人いるかわかったものではない。迫力があり、真っ直ぐで、リズミカル。それがいわゆるヒラコー節。だが、筆者は実際、あの演説自体はそこまでお気に入りではない。個人的な趣向の話ゆえ、申し訳ないが……筆者は、長いセリフが好きではないのだ。無論、あの長さを迫力を失わず書ききったという意味で、少佐演説は素晴らしいとは思うが……ヒラコーさんの言葉の巧みさは、ああいう長セリフでは測りえないところにあると思う。
ヒラコー節の本当の魅力とは、すなわち、「単純かつ一発で伝わる言葉選び」のことである。ひねくらず、辞書を引かず、誰にでも思い付けそうな在り来りな言葉を、独特の迫力でもって描き抜く……それが、「ヘルシング」の言葉回しなのだ。「横合いから思いきり殴りつける」だとか、「ああやっぱり、ならばそして」だとか、「俺もこの通りのザマだったんだ」とか……短く、シンプルで、それでいて登場人物たちの「思い」がギッシリ詰まり尽くしている……そんな言葉だ。とりわけ筆者が気に入ってるのは、このセリフである。
そうあれかし
って、これは作者が考えたわけじゃねーじゃねえか!と軽く突っ込みを誘いつつ、細かく説明を始めるよりも先に……まず、この言葉をチョイスした平野さんに、強烈なセンスを感じないだろうか。「そうあれかし」は、ルビに振られているとおり、「アーメン」のことではあるのだが、普通に考えてイマイチ格好いい言葉ではない……と、思いきや、いざアンデルセンさんが叫んでみると、鼻毛も凍るほどに格好いいのだから驚きだ。これには参った。しかしながら、それだけではここで挙げるほどの魅力は無い。それくらい格好いい言葉なら、本作の全体に溢れかえっているのだから(それはそれで半端ないが)。そんな中で、「そうあれかし」が特別に魅力的である理由……それは、この言葉が、あるセリフへの伏線であったからに他ならない。そう、伏線。演出的な伏線である。「そうあれかし」は、アンデルセンが心臓にエレナの聖釘を刺す場面で放った、あのセリフへと繋がっている。バヨネット・脅威・炸薬・暴風……そんなものを己の理想として並べた上で、彼は言うのだ。
「これを突き刺すことでそうなれるのなら、そうしよう……そうあれかし(アーメン)」と。
どうだ、これほどまでに意志が詰まった「そう」がこの世にあるだろうか。同じ言葉を繰り返すことで、その意味を強調するのは在り来たりの手法であるのだが、それにしてもこの「そう」は、宗教的言葉である「そうあれかし」を前提に置いているだけに、繰り返されてきた量が違う。また、殉教者たるアンデルセンの在り方も、余すところなく表現されているのだ。シ徒たるアンデルセンの全てが詰まった、作中屈指の名セリフだろう。
ここで言われている「そう」……すなわち「それ」とは何を指すかを説明するのは難しい。だが、本作を読んだ誰もが「それ」を理解している。それがすごい。アーメン。
セラスについて
最後に、婦警ことセラス・ヴィクトリアについてちょっと書いてみようと思う。彼女の存在は……正直な話、若干浮いていたと思う。吸血鬼として覚醒してからは、ヘルシング機関としてスッカリ馴染めた感も漂わせてくれた彼女だが、その前までは、いろんな意味でギリギリだったと思う。理由は多分、メガネを掛けていないせいだろう……なんて冗談はさて置き、なぜ彼女が少し危うかったのかを考えてみると……実はここにも、ヒラコー節というものの性質が見え隠れしている。というのも平野先生、いわゆる日常パート的な部分のゆるいセリフ回しというものが、決定的に向いていない方なのだ。盛り上がるど派手なシーンや、過剰なまでにフザケた場面において、悪魔的なまでのインパクトを放つヒラコー節であるが、このセリフ回し、ちょいちょい挟まるゆる~いパート内においては、その単純明快さが災いして、かえって拙く感じてしまったりもするものなのだ。つくづく尖った漫画家だと思う。過激なシーンにおいては比類がない分、全く無理!という点もハッキリとしているわけだ。その被害をまともに被ったのが、セラスというキャラクターだったのだろう。彼女は性格設定において、裏を持ちつつも常識人である、というのが重要であった。アーカードの異常さ、戦争の悲惨な側面、人間性を示すにあたって、彼女がそういう「弱い」性格であることには意味がある。その立ち位置は、間違いなく正しい。しかしながら、その立ち位置を表現するためのセリフ回し、構成が、平野さんはトコトン苦手だったのだ。なぜなら、「弱い」から。平野さんは、「強い」を描くプロである。「強い」ならいくらでも、なんとでもなる漫画家である。だが、「弱い」はとんと描けないのだ。本当に、平野さんって面白い漫画家だと思う。
結論として、セラスは、立ち位置は正しいのだが、表現が微妙だった、ということになると思う。それが、彼女がどうにもギリギリのところで浮いてしまっていた理由だろう。が、彼女はギリギリで踏みとどまれた。それもまた、本作が伝説となった一つの理由かもしれない。
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