平凡な毎日と、それでも変化する毎日という矛盾を生き抜く
平易な日常
日常というのは、誠に平易なものです。何か、特別な事件、ものすごい恋愛みたいなことは滅多に起こらない。日常というのは、平易で平凡です。この「門」の出だしもそうです。前作「それから」の続きのように思われるこの作品ですが、前作で不倫の末に手に入れた妻と、この作品では、何のことはなく縁側でゴロゴロしているような日常を送っているのです。自分の日常と照らしても、僕は日常、決まった時刻に起きて、仕事をして、帰って、彼女や友達とメールをして・・・。まったく、それだけの日常を一年中、繰り返しています。その平易・平凡というのが、生活の基礎として大切のようです。結局、激しい恋愛をしたとしても、日々、していることは平易で平凡なのです。
それでも、変化は起こる
上の文章と矛盾しますが、それでも、変化は起こる、のです。主人公はできれば、このまま愛妻と二人で穏やかな日常を延々と繰り返すことを望んだかもしれませんが、周りが放っといてくれません。人が何かを持ち込んできたり、衝撃的な出会いをしてしまうようなこともあります。主人公の場合、昔、そこから妻を奪った親友とばったり会ってしまいます。そこから、心理的に懊悩して、参禅します。
しかし、再び、平易な日常へ
参禅するほど、悩んではみても、主人公は最後に妻の待つ日常に戻ってきます。結局、平易・平凡な日常の中に揺らぐように変化が現れる。しかし、基調である生活はそうそう変わらない。淡々と続いていく生活こそ、一番大事だと僕は思って読みました。
父母未生の面目
主人公は、参禅して「父母未生以前の面目とは何か?」と問われます。それについて、個人的に僕が考えられることを少しだけ。父母未生以前だから、そこには何も無いんじゃないか? 自意識みたいなものはないんじゃないか? と思ってしまいます。しかし、宇宙内に僕らはいます。宇宙が始まってから、宇宙の中の一部であり続けたのが、僕らです。宇宙でなかった僕ら、などありません。僕らは宇宙の中の何らかの存在であり続けたのです。だから、「父母未生以前」は「宇宙開闢以前」と言い換えてもいいかもしれません。しかし、現代スピリチュアリズムの本を読んでいると、宇宙が始まる以前から、神はあり、宇宙がどこへまで行っても、神はあるんです。で、神の一部でない存在はないそうです。もっといえば、すべても、すべてでないものも、すべてが、神そのものなのです。そこでは「絶対安心の境地でいなさい」といえます。神の摂理は完璧だから、苦悩すら、完璧なのです。近代自我に苦しんだ、漱石の苦しみすら、神の愛に包まれている。また僕の苦悩もあなたの苦悩も神の愛に包まれている。安心して、自分のしたい道を歩き続けることです。(この項、余計か。ただ、そういうテーマがあったので、僕なりの見解でした)
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