「人間関係」のリアルさではガンダムシリーズ中最強
「国家」「組織」より「キャラクター」中心の「ガンダム」
1996年放送の本作、前作の「機動武闘伝Gガンダム」(以下Gと呼ぶ)と並んでその後のガンダムシリーズの流れを作った作品と言えるだろう。
それ以前のガンダムは「リアル」「戦争」という縛りがあった。また「富野由悠季」「ニュータイプ」という扱いにくい要素もあったが、「G」によってそれらは全てはリセットされた。とにかくガンプラが売れれば何をやってもいい、という流れを作ったのだ。
とはいえ「G」は「ガンダム」のカテゴリーに含んでいいのか?という作品だ。その後にあまり継承されていないのでイレギュラーと言ってもいいかもしれない。「マーメイドガンダム」とか「マンダラガンダム」などを見せられた従来ファンは、こぞって「これはガンダムじゃない」と連呼したし、「もっとリアルなものを見たい」という従来回帰の要望も沸き起こった。
そこで本作「新機動戦記ガンダムW」(以下Wと呼ぶ)である。「G」よりは「国家」「戦争」「群像劇」を意識的に扱い、従来の「ガンダム」に寄っている。新たに「美形」という要素も取り入れた。これはその後の「ダブルオー」「SEED」などに影響を与えている。しかしこの要素は開始当初から今に至るまで語りつくされているので、ここでは考察しない。本考察では本作が「個人として戦うガンダム」のパイオニアとなったという点、「人間」はリアルじゃないのに「人間関係がリアル」という点をクローズアップしたい。
「G」の「何でもアリ」はキャラクターのみで発揮される
主人公ヒイロは番組開始当初は「超人」として描かれる。50階のビルから飛び降りて死なない。それどころか軽傷で済み、骨折を自力で治癒する、など人間技ではない要素が強い。ファーストやZではありえない「超人」ぶりである。これらの設定は後半では控えめになり、「訓練を積んだ工作員」、「感情のままに生きる」という要素がクローズアップされていくが、「感情のままに生きる」というのもなんだかよくわからない。要するにキャラクター自体は決して出来が良いとは言い難い。しかし20年以上たった今日でも非常に愛されている作品である。
キャラの個性や描き方は大人の事情として放送中に監督交代が起こったこともあってのブレなのかもしれないが、終わってみるとそのバラつき感はある種の「人間くささ」につながっている。ファーストのアムロ・レイは序盤は戦争を嫌うナイーブな少年であったが中盤以降ホワイトベースのクルーとして、ガンダムのパイロットして戦うことに疑問を抱いてはいないし、Zのカミーユは私怨でガンダムMk-Ⅱに乗り、キリマンジャロでフォウと再会した時こそ私情に走るが、それ以外はエウーゴという組織をはみ出すことはなく、戦争終結を目指して戦う。つまり彼らはおおむね一貫性があり、理解されにくいと言われたカミーユですら当時言われたほど複雑ではない。
しかしヒイロは何のために戦っているのか非常にわかりにくい。序盤では指令を受けてそれを遂行する秘密工作員的な動きが目立つが途中からそれも薄れ、「ただ戦う」ことが目的化していく。アムロやカミーユは「仲間を守る」という明確な戦闘動機があったが、ヒイロには仲間意識は薄い。組織に属してはいるものの殆ど個人として戦っており、搭乗機を失って尚雑魚メカに乗り、一人空しく局地戦を続けるあたりはテロリストともいってもいいほどだ。
これはある意味で非常に人間らしいと言えないだろうか。通常のリアルを生きる人間は会社や組織に属していてもそれに殉死することなどありえない。基本的には「個として存在すること」がメインである。
他のメインキャラクター、リリーナ、デュオ、五飛、カトル、トロワ、ゼクス、どのキャラも挫折を味わい、変遷や方向転換を余儀なくされる。全体にまとまっていたとは言い難い本作ではあるが、これほどの数のメインキャラをそれぞれ丁寧に描き、かつそれぞれの関係が一体ではなく数珠繋ぎ、という点が非常にリアルだ。本作はほぼ最後までヒイロとリリーナ、トロワとカトル、五飛とゼクス、といった具合に2人か3人の関係性を描き続ける。○○チームいたという点では本作はガンダムシリーズ中最高の作品と言えるだろう。
ファーストガンダムでは主人公アムロ意外の個性もクローズアップされるものの、あくまでも「ホワイトベースのクルー」の域を脱しない。放送1回分の枠を超えてクルーのパーソナリティーを描いたのはセイラとシャアの関係性、カイとミハルのエピソード、ミライとスレッガーのエピソード、くらいである。それらもジオンと連邦の戦争というメインの流れを害しない程度に挿入されたものである。それ以降の富野作品は主人公以外は雑な扱いを受けることが多い。Zのジェリドなどが良い例で、第1話から登場してカミーユのライバルとなるのかと思ったが、フォウを殺すという重要なシーンを経てなお、出番が多いやられ役という以上の存在にならなかった。死ぬシーンなど無残な犬死である。ファーストから登場するカツもひどい扱いを受けている。収集がつかないのなら出さなきゃいいのに、と思うほどだ。
後のガンダムでもSEEDやダブルオーなどキャラクター性を重視した作品は多いが、それぞれはあくまでも話の流れの中でそれぞれの役割がある。アスランはキラと和解できるのか、というストーリーの中でこそ生き生きとしていたし、協調性が低かったダブルオーキャラもロックオンというまとめ役によって次第に目的に収束していく。
しかし本作では個々のキャラが目的を一致させる場面がほとんどない。二人ないし三人のユニットで行動することはあっても5人がまともに揃ったシーンは稀であり、またそれを嘆く場面も特にない。彼らは最初からチームではなく、「個」なのだ。カトルは家族やマグアナック隊との関係を重視しているし、五飛は「強さ」という永遠のテーマにこだわり続け、トロワとデュオは比較的協調性はあるもののガンダムパイロット以外とのそれぞれの人間関係を重んじている場面が多々描かれる。これこそ学校や職場でのリアルな人間関係と言えるのではないだろうか。
彼らが「個」に徹した原因
なぜここまで「個」に徹底したのか、と考えると彼らはホワイトベースのような「帰る場所」を共有しなかったからだろう。どの作品でも戦艦は補給基地であり、安息の場所である。それだけに戦闘の合間に本音でぶつかり合うシーンは戦艦の中であることが多い。同じ船に乗っていれば寝食を共にすることになるし、自然と打ち解ける機会も得られる。しかし彼らは帰る場所を共有することが少なかった。それゆえ最後までまとまることなく、リアルな「知り合い」レベルを保ったのだろう。思えば人間像としてあまり「リアル」とは言い難いのに、これほど「リアルな人間関係」を描いたのは本作のみだろう。
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