ナウシカはいかにしてあの選択にたどり着いたか
物議を醸す最後の選択
知る人ぞ知るナウシカの原作である。この作品が聖女ものの原点とは言わないが、それでも日本にそんな文化を流行らせたのは明らかにこれってくらい有名な映画の原作である。しかし、そのオチは映画と違ってかなり物議を醸すものであることは、この漫画を読んだ皆さん理解されてることだろう。ナウシカは最後に、墓の主たちの立てた人類救済の計画をぶち壊してしまう。改造された人間の体を、改造されたままに放置することを決断する。ゆえに人類は腐海が消えた先で生きられないことが確定した。少なくとも、生きられる確率が著しく減退した。この選択は、果たして正しいものなのか。これはかなり難解な問いである。本作を読んでいるとなんとなく正しい気がするのだが、どう正しいのかをハッキリ示すというのは難しい。本作を知る友人と何度か話したことがあるが、誰ひとりとしてお茶を濁す以上の説明を提示できなかった。中にはハッキリと「頭がおかしい」と言い切ってしまう人まで……筆者も初めて読んだ高校生の時には、このオチをどう判断すればよいのかわからなかった。しかし、今その話を思い出してみると、なんとなくちゃんとした説明ができる気がしたので、ここにそれを書いてみよう。
人類の存続
先に結論を言うが、ナウシカの選択が正しいか否かは、立場によって変わるものである。というのも、ナウシカの発想は必ずしも「人間」もとい「人類」を重視しないものだ。彼女は命あるものは全て慈しむ。もし仮に人類が未来に存在しなくなっても、そこに蟲たちのように素晴らしき命が生きているならば、それは人類の存続と等価である……そういう考え方なのである。この解釈だけでも、ナウシカの決断にはかなり納得できるようになるのではないだろうか。この考え方ゆえに、あくまで人類の存続を望んだかつての賢者たちの思想とは相容れなかったのだ。では、ナウシカと彼ら、どちらが正しいだろうか。ナウシカはその旅路の中で、幾度も人間の醜さを思い知り、それと対比するかのように蟲たちの偉大さを思い知る。これがあの決断の一つの伏線であったと考えられる。筆者がこの漫画の中で最も心を震わせたのは、王蟲たちが粘菌を喰らう理由が明かされるシーンだった。粘菌でさえ仲間とする蟲たちの慈愛は、どこまでも深い。それまで、戦争ばかりの人類の中では恐ろしく自然よりの思想を持っていたナウシカでさえ、その思想にギリギリまで気が付くことはなかった。なぜか。それはナウシカの考え方が、結局は人間を中心としていたからに他ならない。人間ならば、攻撃してくるものは敵である。ゆえに王蟲も粘菌を攻撃しているという考え方に、疑問を抱くことさえなかったのだ。それは一つの価値観でしかなく、絶対的な哲学ではないと考えられなかったのだ。蟲たちの、「全にして個、個にして全」という存在のあり方は、人類の狭量な発想とは格が違うものである。そのことにナウシカが気がつかなければ、最後の決断も違っていただろう。なにせ、あの最後の決断というものは、この時の蟲たちの思想そのものなのであるのだから。人類の存続は必ずしも必要な条件ではない……それは「命」の力に任せて、精一杯生きようと、そう考えたのだろう。
命はそれ自体で価値がある
人類の存続を絶対視する立場は、まさに人類本位の立場の象徴である。蟲たちのそれと比べれば、あまりにも幼いと言われても仕方がない。ここで、最も重要なのは、その蟲たちは人類が作ったものであるということである。これこそこの物語の根幹を成すテーマだろう。人間は自らの行為の成果を、自らの価値として享受したがる。子どもの成功を親は手柄顔で喜び、発明品は特許とともに富をもたらす。しかし、子は親よりも偉大でありえるのだ。人類が作り出した蟲と腐海のシステムもまた、人類よりも偉大であったことは疑いない。たかが人類の尻拭いでも、蟲たちは慈愛と自己犠牲の精神でそれをなし続けている。そのシステムを作った人類と、被創造物……しかし、偉大なのは後者であった。生命は、生まれた時点でそれほどの価値を持っていたのである。それが「風の谷のナウシカ」のテーマなのだ。ここで人類の行いを振り返ってみよう。人類は自らの愚かさで世界を燃やし、毒で地球を包んでしまった。故に人類そのものを改造し、毒のある世界でしか生きられないように造り変え、その毒を浄化するためだけの「命」さえ作ってしまった。これをナウシカは冒涜と呼んだのだ。その通り、冒涜である。あまりにもおこがましい人類の身勝手である。偉大な命を、人類の目的のために奴隷として扱ってしまったのだ。しかし、それでもなお命は偉大であったと、ナウシカは王蟲を通して思い知った。自らの存在理由、粘菌の発生、それによる死。全て人類のわがままな事情であるが、蟲たちの心はあくまでも慈愛に満ちていた。ならば、人類が弄んだ人類の命もまた、偉大であるはずである。例えその体が毒に合わせて改造されていようが、清浄の地では血を吐いて死ぬ運命であろうが、命は偉大であるのだから、運命はそこに託そうとする立場を、否定する人はそういないだろう。だが、これだけではまだ最後の決断に納得しきるのは難しい。どうせ偉大なら、人類も存続したっていいじゃないかと、そういう風にも考えられるからだ。実際問題この時のナウシカの決断のせいで、生きられたはずの命が死んだのだ考えれば、ナウシカはやはりイカれた悪魔と呼べるのかもしれない。実際墓所の主はナウシカをそう呼んだ。この点こそ、本作で最も物議を醸すポイントであろう。なぜ、ナウシカは墓所の提案を拒んだか。それは、墓所の主が選択した手段があまりにも浅ましかったからである。
醜い墓所
人類を存続させるための手段というものはつまり、「腐海や蟲たちに人類の尻拭いをさせて、終わったらまた改造する」ということだ。この時点で、ナウシカからすれば受け入れがたいものであることは理解できるだろう。その、どこまでも人類至上な正義感、奴隷を前提とした発想が、結局はナウシカ世界全体に散見される、皇弟やオーマなどのかわいそうな命を生んできたのだ。王蟲たちのような、偉大なものの犠牲を強いてきたのだ。これを例えば、もっと小さい世界で考えると、ある親が自らの不手際で体に障害を残した子のために、他の子どもたちの体を無理に移植するルールを作るようなものである。その行いが、親の愛から来ることは疑いないが、しかし、誰がどう見たって正しい思想とは言えない。言えないのだが……何も知らないその子からすれば、このルールを断ち切るナウシカのような存在は悪魔と映るに違いない。ハッキリ言って、これが全てである。だから筆者は最初に、ナウシカが正しいかは立場によると述べた。ナウシカの行いは、人類の未来だけを考えれば不正解に近い。命の可能性に賭けるというのは、つまり、残った障害が自然治癒しなければ、諦めろという意味なのだ。なかなかどうして納得はできないだろう。その個人が、人類にまで枠を広げられてはなおさらである。この点は実に難しい。真に正しいのは間違いなくナウシカなのだろうが、人類という括りは流石に、人類にとっては大きい。この漫画は無論、それを否定するテーマなのだが、いまいちやりきれないのも事実だ。しかしながら、やはり筆者はナウシカの選択を支持しようと思う。結局何かに犠牲を強いる形で生き残った人類など、もう一度滅ぶのが目に見えている。それを防ごうとすると、結局は少数のものに多数が仕える本末転倒な未来しか待っていない。墓所の主が目指した世界は、結局はそれなのだ。これを読んだ人に理解していただきたいのは、ナウシカは決して人類の滅びを望んだわけではないということである。ただひとえに、墓所の思想を害悪として切り捨てたのだ。そこにはなんの間違いもないだろう。命はどこかからやってきた。より大きな視点に立てば、例え人類が滅ぶとも、どこかからまた、命は生まれるのだと信じるべきなのかもしれない。
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