薬になるほどの、残酷さ - ブラッドハーレーの馬車の感想

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ブラッドハーレーの馬車

5.005.00
画力
4.00
ストーリー
3.00
キャラクター
3.00
設定
4.00
演出
5.00
感想数
1
読んだ人
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薬になるほどの、残酷さ

5.05.0
画力
4.0
ストーリー
3.0
キャラクター
3.0
設定
4.0
演出
5.0

目次

もっともふさわしき主役たち

ある状況の中でもっとも主人公にふさわしい人物とは、その中でもっともままならないところへと追い詰められた人物である。もっとも感情の動く人物こそ、もっとも主役にふさわしい……物語の基本と言えるだろう。だが、この前提に完全に従おうとすると、ある課題にぶち当たる。すなわち、理不尽に殺された被害者以上に主人公らしいキャラクターはいないのではないかということだ。ずっと昔から、そのように思えてならなかった。解決する探偵よりも、殺された人のほうが、描写に迫力が出るのではないかと、そういう考え方だ。しかし、それは無理があることくらい、誰にでもわかる。殺されるキャラクターは、決して英雄的ではありえない。そこに焦点を当てたとしても、漫画として面白くなるわけがないのだ。ところで、漫画には度々レイプが登場する。その描き方は大抵エロティックだ。それではただのポルノだろう。別にポルノを否定する気はないのだが……気にはなる。いや、気になるのはどちらかといえば、あからさまな性的暴力の描写よりも、少年漫画にありがちなエッチなシーンというやつか。ああいうものは、どうにもモヤモヤする。ラッキースケベなどと明るくと言うが、実際それは暴力だ。どこまでも浅ましい、暴力だ。まぁ、そんな突っ込みは当然野暮なのだし、実際にこういうことやるのはおかしいと、みんなわかっているのだとは思うが……そういうシーンが出るたびに、ジワジワと嫌らしさが頭に浸透していく。折に触れて胸糞が悪くなる。ある意味でそれは、ド直球の暴力描写よりも不愉快であったりするのだ。性的にせよなんにせよ、暴力は「やってはいけない」のではなく、「やられたくない」ものであり、だからこそやってはいけないのだという前提が抜け落ちて感じるからかもしれない。そんなとことんに幼稚な認識が、嫌なのかもしれない。もちろんこれらはただの筆者の勘違いや過剰反応の一種なのだが、わかっていても不快なものは不快である。と、そんな風に考えていくうちに、いつの間にか嫌いだったはずのレイプシーン、本気で悪虐な暴力シーンを見るとどうにも気持ち良くなってしまう頭に改造されてしまっていた。「そうだ、性的であろうがなかろうが、暴力は暴力なんだ」とわかってくれている人がいる気がして、安心するようになってしまったのだ。汚れちまったものである。そしてこの、歪んでしまった嗜好性にビタリと当てはまった漫画こそ、このブラッドハーレーの馬車だった。

してはいけないのではなく、されてはいけない

この漫画を最初読んだとき、脳みそから汁がブシャーっと飛び出したような気がした。なぜなら主人公はとんでもない状況に追いやられた最悪の被害者で、性的暴行は、その性の印象を与えないようなまでに無機質な暴力であった。この漫画において、レイプはただただ気分の悪い暴力以外の何ものでもなく描かれている。こうはなりたくないという残酷さに溢れている。「これだ!」と、そう思った。全てが噛み合っていた。性的暴行という言葉の、手前二文字に注目する奴は大抵ろくなもんじゃない。それは単に、著しい暴力だ。痛みだ。苦痛なのだ。それをまっすぐに示した漫画は他にもあったろうが、そこから殺されるという、究極の不幸を「主役」として描いた漫画というとなかなか思い浮かばない。今まで漫画を読んできて感じてきた不満、不都合、問題点……そのストレスが一気に吹き飛んだような気持ちであった。レイプはしてはいけないのではない、されてはいけないのだ。それが一番示されている話こそ、第二話である。あの、一週間にわたり暴行を振るわれ続けた少女の、痛ましすぎる姿である。あの話だけは、何度も読み返したくなる。はっきり言って、導入である一話を除くほかの話なんてついでみたいなものだ。あの二話「友達」を前提として、色々とパターンを描いてみたに過ぎない。ことの顛末も、ブラッドハーレー当主のささやかな償いも、大した意味はない。あれらは蛇足とまでは言わないまでも、ただ単に物語としての体裁を成立させるためのおまけでしかない。純粋無比の不幸。それがこの漫画の真髄である。薬というものが、成分を抽出したものでああるならば、この漫画は、筆者にとっての心の薬であった。ゆえに人には勧められない。漫画とは普通、美味しい料理だからだ。この漫画は、漫画界随一の劇薬と言えるだろう。

つまりはただの嫌な漫画

さて、そんなわけで筆者はこの漫画に痛く感動したわけだが、しかしふと考えると、この話って実はすごくつまらないのではないかと思い直すこともある。少なくとも昔の自分なら、ただ単に嫌な話として処理して、二度と読み返さなかったであろう。そう、この漫画、ただただ不幸なだけの話なのである。先ほど筆者は「これだ!」と述べたが、本当に、これでしかない。おかげで人には絶対に勧められない漫画である。さらに言えば、この漫画、おそらく、テーマもへったくれもない、ただの不幸話としてこの漫画は描かれたのだと思われる。暴力描写の中に、人格無視の暴力行為への怒りは感じられない。気分が悪くなるようなクリーチャーのデザインが、明らかにやりすぎになっている時のような悪ノリさえ感じられる。言ってしまえば、ナンセンス。そんなもの、普通に考えて面白いわけがない。胸糞悪く、劇場性も薄いこんな話、よくぞ出版してくれたと思うくらいだ。そんな話が、これほどまでに心に響いた理由とは、何か。おそらく、テーマがなかったからである。本来ならテーマのないお話はただただ混沌とした、作者の心象風景にしかならず気持ち悪くなりがちだが、この漫画に関しては、それが逆にプラス(あるいはマイナスか)に働いているように感じてならない。伝えたいものがないからこそ、ただただ嫌な描写に終始することができた。その先の道も、あるいはこの描写への怒りも、筆者のようなブレた感動も、全てが完全に読者へと委ねられている。これこそこの漫画の、歪んだ趣味とは別に、真に価値ある要素と言えるだろう。

突き詰めるということ

純粋に一つのものを突き詰めたものは、なんだって価値がある。それがひたすらのご都合主義でも、とんでもない自分語りでも、あるいは黒死館殺人事件のような異常な衒学趣味であってもである。当然不幸を突き詰めることもまた然りである。これを目指す場合、もはやテーマさえ不純物だ。テーマというのはどうしても、読み手に対してある問いを投げかけることになる。興味がない人に読んでもらいたい、新しいことを考えて欲しいと願うことは、売り手としては、何様な考え方と取られても仕方がない。それは場合によっては大きなお世話だったり、偉そうだったり、鼻についたりすることもあるのだ。「ブラッドハーレーの馬車」には、それがない。価値がない人にとっては一切価値がないことも、嫌な人は読まなければいいという姿勢も、当然のように徹底されている。この漫画、言ってしまえばただの作者のサディズム(この言葉で一般にイメージされるものとは少し違うが)の結晶であるが、それがよかったのだ。だからこそ、純粋な「不快感」であれた。筆者が普通の漫画に感じてきたモヤモヤジワジワくる不愉快とは違う、徹底的に黒い、残酷さ。それでいて、それ以外の何ものでもない。こんなに残酷なラスボスに、復讐せよという演出的意図もない。それを批判する人もいるだろうし、その姿勢は間違えていないと思うが、筆者はあえて、この単純でなんの意味もない残虐描写を愛そうと思う。これは作者の意図を超えて、価値のある作品であると言おうと思う。これほど真っ直ぐな「悪」のイコンもそうないだろう。そんなものはいらないと、そう言う人もいるかもしれないが、世の中は時に残酷だ。とても嫌な話など、事実の中に、無数にあるではないか。それをイコンとして崇めるのは、関わっていた人々全てに失礼というものである。騒ぎ立てることもまた残酷というものである。ならば、寓話の中にそれを作るほうが、よっぽど人道的に違いないだろう。

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