建前と本音があるのがあたりまえで、可笑しく悲しい - いろんな気持ちが本当の気持ちの感想

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建前と本音があるのがあたりまえで、可笑しく悲しい

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目次

漫画の台詞と心の声


物心をついたころから、思ったことを、思ったまま、思えなかった。笑っている人と笑いながらも、ああ自分は今愛想笑いをしているな、と自嘲が混じったり、相手を責めながらも、あれ、でも前に自分も同じことやってなかったっけ?と気づいて、焦ったり、沈痛そうな顔をする人に囲まれて、悲しそうにしながらも、早く漫画の続きを読みたいな、と不謹慎に考えたり。それこそ漫画みたいに、台詞もありつつ心の声が、別のふきだしになって、同じコマに一緒にあるような感じだった。ここは笑うべき、怒るべき、悲しむべき場面と分かっていて、そう思わなくちゃと思うものの、今一心からそう思えないし、違う思いや、なんなら相反する感情が湧いてくる。周りの人を見ると、適切な感情表現や態度を示しているようなので、一貫しているのが普通で、自分は精神的にどっかこわれてんじゃないかと、悩んだこともあった。
ただ年を重ねるにつれ、周りの人ももっともらしい顔をしながら、様々な思いをその胸に秘めているらしいことが、分かってきた。まあ、そうでないと、台詞と心の声が同時に描かれた漫画を、理解できず、共感したり笑ったりはできないだろう。とはいえ、そんな漫画の一コマのようなことを、自分もしているのに、気づいている人としていない人とがいて、後者のほうが多そうに見えた。気づいてしまうと、都合が悪い場合が多いのだ。上司の話を糞つまらないと思ったら、笑顔がひきつるし、自分にも落ち度があったことに気づいたら、思いっきり怒れないし、死んでくれてよかったとほっとしたら、泣き崩れることはできない。だから、本気でそう思って、邪な気持ちは一切ないと思いこもうとする。たしかに、そのほうが格好がつくとはいえ、自分なんかは、そんな邪な気持ちがおもしろいと思うし、知れたほうが、どこかほっとする。

師弟プレイをしたいと自覚している時点で終わっている

この作者の書く人物は、分かりやすい意志表示をしないし、結構な問題が起っても淡々と見守っていることが多く、ままよと状況に流されている印象がある。自分がそんなしっかりした人間でないのに、人にしっかりしろと、偉そうなことは言えないという思いが根底にあるように思えるし、邪な気持ちを抱えていたら、強気にでにくく、態度が曖昧になるのは当たり前だから、リアルだとも思う。リアルというからには作者自身が、邪な気持ちがあるのを、いやというほど気づいていると思われ、このエッセイでそれがうかがい知れる。
たとえば、弟子が欲しいという話。別に本気で弟子をとりたいわけでなく「プレイ」をしたいのだという。その一環として、弟子なんて俺はとりたくなかったんだというスタンスをとりたいとのこと。「押しかけられ、何度断っても雨の降る中、立ち尽くしているポンポン。(内心ガッツポーズなのだが)行きがかりで仕方なく、みたいな風も漂わせたい。」会心の思いでガッツポーズをしたいくせに、雨に打たれる弟子志願者を眺めながら、しかめつらしい顔をしてため息をつく、ポーズをとるという、なんという格好悪さ。とはいえ、昔はよくあったろう、こんな光景の中の、師匠側の人間もまた、そこまで弟子に慕われて、嬉しそうでなく、迷惑そうにしているイメージがある。本当に迷惑に思って苦い顔をしていたのか。もし「弟子にしてください」と頭をさげられるのが気持ちよくて、もっとと思い、わざと厳しい態度をとっていたのなら、中々阿呆らしい。まあ、でも、そんな助平心があるのを認めるのは嫌だろうし、内心にやにやしておいて、常に威厳を保つのも難しいから、自覚していないのかもしれない。逆に作者などは、プレイがしたいと断言しているくらい自覚しまくっているので、態度もぶれまくって、結局したい師弟プレイが成立しなくなるのではないかと思う。だとしても、不機嫌そうな顔をしながら、ついにやけそうになって、口の端を痙攣させるのも、それはそれで、見ていておもしろいが。


雨に打たせる師匠と親切にさせたい大人

自分の気持ちに自覚的かそうでないかの話は、すこし主旨がちがうが、エッセイの中にもでてくる。御伽噺「こぶとり爺さん」の鬼について、書かれたものだ。踊りがうまいと鬼に気にいられたお爺さんが、帰り際「また来いよ。お前の大事なものをあずかっておくぞ」とこぶを引きちぎるところ。「鬼が爺さんのこぶをとらねばならなかったこと、そういうふうにしか付き合えないということの、ちょっとの寂しさもいい。鬼はその寂しさを一生自覚しないだろうが。」と作者は書いている。鬼はお爺さんと仲良くなりたかったのだと思う。でも「これからも仲良くしてくれよ」と鬼が言うのに、その場では「はい」と応えつつ、お爺さんが二度と姿を現さなかったら、と想像し、可能性が高くも思えたから、不安になったのではないか。そんなふうに傷つくのを回避するために、また可能性を低くするために脅迫をした。ただ皮肉にも、脅すことで、お爺さんに親しみを抱かせられるわけがなく、さらに恐がらせるという、鬼のやることは、なにひとつ報われない。こうなったら、鬼として生まれてきたことを恨むしかなく、でもそう思っていたら、やっていられないから、脅迫してまで、人と仲良くしたいとの切実な思いがあることを、自覚しようとしないのだろう。
こう考えると、単純そうな鬼にも、悲哀が感じられる。こんなふうに読む人はすくないし、自分もそこまで考えたことがなかったが、単純にこぶを引きちぎる、という行為が残酷で痛そうだと思ったことはある。挿絵では、餅でもちぎるように、あっさりと描写されてはいるものを、どうしても皮膚が剥がれ、血が滴り、肉がいくらか抉れて、頬骨が覗くさまを、想像してしまう。大体、手術するなど適切な処置をしなかったら、跡が残って、結局お爺さんはまた周囲の目を気にするだろうし、後に行ったお爺さんも、リアルに言えば、腐った肉片を頬に叩きつけられただけで、本当ならくっつかずに、ただ落ちるだけだ。これでは、どっちがかわいそうなのか分からない。
最近の「こぶとり爺さん」の内容は、かなり変わってしまっていると作者はいう。鬼は親切な爺さんのこぶを「とってあげて」、宝物を授ける。意地悪な爺さんは、それを目当てに山へおもむき、「罰として」反対の頬にもこぶをうける、とのこと。「なんなんだ、興ざめだよ!」と怒ったらしいものを、自分は怒るまででなくても、やはり釈然としなかった。だって、そうだろう。リアルに言えば、親切なお爺さんは、こぶを引きちぎられて、痛い上に跡も残れば、宝をもらっても、今一喜べない。一方で意地悪な爺さんは、腐った肉片を叩き付けられるという、罰にしては、不快でも実害はないことをされて、おまけに親切なお爺さんに分けてもらった薬で、きれいにこぶがとれるのだから、しめしめとは思っても、「これからは悪いことをしないよ」と改心なんかするわけがない。新こぶとり爺さんには、善行をすれば見返りがあるし、悪行をすれば罰を受ける、しかしやり直すこともできる、という教訓のようなものがあるようだ。正しいように思えて、「宝」で子供を釣ろうとする思惑があるのを、大人はたぶん自覚していない。いやらしいなあ、とは思うが、自分のように読んだ場合、人に親切にしたって馬鹿を見ることもあると、ある意味現実を知ることができる。また、自分は、きれいにこぶがとれなかったにも関わらず、同じようにこぶに悩む人に、薬を渡すことができる、心の広さが人にあることも。そして、それが本当の親切心なのではないかと思うのだった。

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