ジェントルマン感想
好意の種類の違い
夢生と漱太郎。二人がそれぞれ、お互いに感じている「好意」の種類には違いがあるように思った。
相手の好意を感じる、要するに、愛されていると実感するときはどんなときか。
抱き締められたとき。愛の言葉をもらえたとき。嫉妬されたとき。他にもたくさんあるのだろうが、つまり、相手が自分のことだけを見つめてくれている、と思ったとき、私たちはそう実感できるのではないかと思う。
夢生の場合はどうか。漱太郎の起こす行動の一つ一つを夢生は鮮明に心に刻む。中でも至福の瞬間なのは、外面の良い漱太郎が他人の前で自分をぞんざいに扱ったときや、夢生を自分の体の一部のように自然に隣に据えたときだ。愛の言葉をかけてくれるでもない(そもそも漱太郎はノンケだ)、優しく労ってくれるでもない、でもそこにどうしようもなく惹かれている。漱太郎のそういうところに恋をしている。貧しい恋に見えるだろうか。私にはそういう風には思えない。
夢生をいないもののように、というか、いて当たり前のもののように扱ったとき。他人の前で被っている笑顔の仮面を夢生の前でだけ外したとき。気遣いの入り込む余地さえない意味のない会話の応酬。そういったあれこれは、つまり漱太郎の、他人には絶対に見せない「甘え」の部分だろう。小さな子供が両手を無防備に広げて母親に駆け寄っていくとき、母親に拒絶されるかもしれないとは微塵も思っていない。相手の愛情を絶対的に確信しているものにしかできない甘え。漱太郎のその無防備な態度が、おそらく夢生をこれ以上ない至福に導くのだろうと思う。夢生の恋情と、漱太郎の甘え。二つの全く違う親愛の思いがこの物語を次第にねじれさせていくのだ。
語り手の種類
物語を読んでいると必ず気がつくと思うが、ストーリーの話し手が、ものがたりの節々で変わるところがある。まず、「ぼく」が語り始める冒頭があり、その後はいわゆる"三人称視点"とか"神の視点"とか言われる、登場人物の誰でもない「語り手」の視点で話が進んでいく。
「ぼく」の視点でも、「語り手」の視点でも、夢生がその中心に据えられていることは間違いない。この小説の世界で事細かに描写される事象は全て、夢生の主観を通した夢生の世界だと言っていいだろう。
ではなんのために「ぼく」の視点と「語り手」の視点とを使い分けたのだろう?この二つのよく似た視点の、違いとはなんだろう。
一番分かりやすいポイントは、「ぼく」の視点で語られるーンは、全て夢生の部屋で起こったことだということだろう。夢生の部屋で起こった、夢生と漱太郎の二人きりのシーンだ。それは漱太郎との掛け合いであったり、漱太郎に向ける夢生の自己主張であったりする。「ぼく」が語るとき、漱太郎はかならず「きみ」という呼ばれ方をする。夢生・漱太郎という、個人を特定できる固有名詞では語らない。もちろん、だからといって登場人物が誰なのかわからなくなるということはない。むしろその語り口は、夢生と漱太郎のキャラクターや行動の癖、二人の間に流れる空気感をより濃密にする。原作者がここに込めた意味やトリックを推し量ることはできないが、読者であるわたしは、片想いの相手に宛てた告白の手紙のようなシーンが好きだ。
作品の臭い
読んでいると様々の瞬間、小説から臭いたってくる気配のようなものを感じた。それは漱太郎が初めて夢生に本性を見せる茶室のシーンだったり、妹の貴恵子に執着する漱太郎のシーンだったり、もちろん終盤の、夢生と漱太郎の最後の瞬間であったりする。漱太郎というキャラクターのことを考えたとき、そこに当てはまるイメージは「人間味のなく」「他人の気持ちを推し測れない」「冷血な人間」といったところだろうと思う。なのに、漱太郎が夢生の前であどけない笑顔を見せるたび、悪事の告白をするたびに、漱太郎というキャラクターにより濃い人間らしさが見えるようになる。それは、冷淡でそつのない普段の様子を知っている夢生やわたしたち読者に心地よいギャップを見せてくれる。非道な行いをしているくせに、わたしは漱太郎というキャラクターが嫌いになれない。多分、それは夢生もそうなのだ。表の顔も裏の顔もさらけ出した不用心なこの男に、恋をしないわけがなかったのだろう。
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