企業する若者への警告
イタリアン・ネオリアリズムの視点
『世界の映画作家5』(キネマ旬報社)の中でイタリアン・ネオリアリズムを監督別に分類するならば、ルキノ・ヴィスコンティのあり方は社会科学的なものの見方を土台として階級や経済の歴史をがっちり把握していくタイプと考えられる。
作品冒頭の字幕の文章からしてこの本が述べていることは当たっているだろうと思った。
その文章とは
「この映画の舞台はアチ・トレッツォ村、シチリア島に実在する村だ。
しかし昔から世界のどこででも(搾取が存在するなら)見られる物語である。
家、道、舟、海、演じる人間全てが実在する。
標準イタリア語では彼等の生活は描けない。」
というものである。
実際にこの映画はイタリアの方言が使われ、
キャスティングもなるべく現地の人間を使ったそうだ。
映画の中でひたすら現実を表現しようとしていることが、ここからもうかがえる。
釣られる運命
その後、歴史的慣習に縛られた家がそれに対し反抗し没落していくという物語である。
それを印象づけるセリフが「魚は釣られる運命にある」というものだ。
作中の展開では、男は女に釣られる運命にあるということの比喩だが、
本質的には、漁師は仲買人に搾取される運命であるという要素の方が強い。
まるで未来が縛られてしまったような、希望のないセリフである。
しかし悪しき慣習の中で育ってしまえば、それが当然になってしまうのである。
主人公が仲買人から独立し、家を担保にして借金し自分の舟を買うのだが、天災により壊れてしまう。
こうした不運にあっても、周りは彼を助ければ仲買人から不当な扱いを受けてしまうため手を出さない。
主人公も結局釣られる運命からは逃れられなかった。
企業する若者への警告
こうした慣習は、もはや過去のものだと思っている人が多い。
特に自由にゆとりを持って育てられた私たちの世代では、こうした慣習にピンとこない者が多いかもしれない。
私と同世代の者の中に早めの独立を志す者がいるが、それは業界によっては大変危険な行為である。
某閉鎖的な業界ではフリーになるものが一時期続出したが、
斡旋契約が根付いたその業界で生き抜くのに苦労したフリーの人は、今「仕事がない」と嘆いている。
確かな人脈もないまま独立し、埋もれていく者を心から助けようとする人は少ない。
助けたとしても、その後はやはり不本意に動かされることが多いだろう。
シチリア島のアチ・トレッツォ村は現代の日本にも存在しているのだ。
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