村上春樹、21世紀への船出 我々は何を失い、何を得たのか
考察のための事前情報
村上春樹2002年発表作品、長編としては10作目に当たる。前後の長編としては「スプートニクの恋人」、「アフターダーク」
村上氏は前作「スプートニクの恋人」執筆の際にそれまでの村上春樹的比喩表現をこれでもかと書き、そのあとは書き方を変えて行く、と宣言している。
「スプートニクの恋人」でもそれ以前と作風の違いを感じたが、本作では更に過去作品のイメージを払しょくする挑戦をしているように思う。
以下、その挑戦とそれに対する私なりの評価考察を記述する。
新たなるキャラクター像
本作に関しての様々なインタビューで村上春樹は主人公を15歳にする事は最初から決めていた、と語っている。過去作は未成年の主人公はほぼいない。あえて言えば「ノルウェイの森」のワタナベは作中で20歳になるので未成年の時期が語られてはいるが、彼はある程度人格形成が固まりつつある若者として描かれており、現役中学生であるカフカ少年とは明らかに違う。更に年齢設定のみでなく、立ち位置としても、どちらかと言えば受動的且つ傍観者的な主人公が多かった過去作に比べ、本作のカフカ少年は前半で自分自身の行動で何かを変えて行こうとしている事、ある程度自分の意志を通そうとしている事、などが村上春樹にとっても挑戦だったのではないか、と思われる。
それらを踏まえた結果として、この新たなる主人公像は成功だったのだろうか?
発表直後に読んだ際は明らかに失敗、と思ったことを記憶している。その理由は以下の2点だ。まず一つ目、過去作同様に主人公の性交が何度も描かれるが、主人公が15歳と若いのに、相手が母や姉と思われる存在で嫌悪感の方が強かった。主人公のペニスの描写がやたらと細かく、回数も多いという点にも食傷した。要するに15歳であるが故に読者の共感を得られなかった、という点で失敗だった。
二つ目は田村カフカ少年のキャラクター像のブレが読み手のストレスになったことを挙げる。前半でこそ行動派の新たな主人公像に挑んでいるように見えるが、後半の大部分は佐伯さんとの性交とその関係性に固執する場面が目立ち、どちらかと言えばじっと動かず待つ展開も多い。読者側としてはこの少年をどう判断したものか、という気分になってしまう。15歳でなければ成り立たないあるいは描けないといったシーンは無く、年齢設定はむしろマイナス要素になってしまった、と言えるだろう。キャラクター像として「風の歌を聴け」3部作の僕、「ノルウェイの森」のワタナベ、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の私、より感情移入しにくくなった事も大きい。そして「風の歌を聴け」以来のオールドファンとしては残念な気もするが、本作以降の「アフターダーク」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では年齢は違えどもカフカ少年に近い主人公像が定着しているようだ。傍観者のスタイルを取りながら内面の吐露により個人として共感を得る過去作の主人公たちよりも、状況に飲みこまれ続ける普通の人、というところか。震災やオウム事件が村上春樹に大きな影響を与えたことは今さら言うまでもないが、弱さへの恐怖とその克服、個としての人格の喪失などを描いてきた2000年以前とははっきりと異なり、個人では抗いきれない厄災や恐怖、悪にどう立ち向かっていくか(あるいは抗いようがない中でどう立ち回るか)を描くには、このようなキャラクターにならざるを得なかったのかもしれない。
複数主人公、あるいは主人公不在という新たなスタイル
本作ではカフカ少年が意外と行動しない事へのカウンターとして、途中から登場する星野青年が行動と成長を受け持っている。複数主人公と考えればこの存在は新しいし、共感と読者へのカタルシスを与える存在として成功しているようだ。本作を書き始める時点で村上氏は細かいプロットは作っていないと語っているので、おそらくは話の進行が生み出していったキャラクターなのだろう。前作「スプートニクの恋人」まで使っていた「僕」や「私」といった1人称が物語を語るスタイルをやめ、3人称の変えたことが生んだキャラクターともいえる。このスタイルの採用で、同時刻に近隣で行動する、カフカ少年と、ナカタさんと星野青年は出会わないまま終わる、という新たな場面展開も生み出された。この「主人公」不明瞭、複数キャラが出会わず同時進行という描き方は次作「アフターダーク」では更に進行し、メインキャラクターと思われる浅井マリ、高橋は大した行動はしないし、謎ときも訴えもほとんどしない、むしろ話を直接的に進めるのは脇役的キャラクターという形で一つの極に到達する。
結局この作品は何だったのか
前作「スプートニクの恋人」で過去作の比喩表現を出し切り、以降はそれと決別する、と語ったことは冒頭で記述した。本作では更に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で実験的に使用した2元空間同時進行っぽい展開もこれで書ききると考えたのだろう。カフカ少年の主人公像は私は失敗だと思っているが、星野や大島といったこれまでにないキャラクターを生み出す土壌を作り、作者が新たな小説世界の構築に踏み出した作品である事は言うまでもない。次作「アフターダーク」では本作で試した世界構成やキャラクターの位置づけを更に広げる実験を繰り返し、2000年以降の代表作「1Q84」への道を切り開いていく。
結局本作品は震災やテロ以降変わってしまった世界で小説家として生き残っていくための通過儀礼だったのだ。
発売当初はジョニーウォーカーやカーネルサンダースが登場する一見チャラい展開や、執拗にペニスの手入れをする15歳の少年に辟易したが、今にして思えば、「世界の終わり・・」の2元構造や「ノルウェイの森」のハツミを思い出させる佐伯さんの存在はオールドファンへのサービスでもあったのかもしれない。
過去作を愛してきた人間には悲しいけれども、変わらない人間はいないし、変わらない世界は無い。しかし、入口の石の世界に残された15歳の少女のようにオールドシリーズは我々が望めばそこにある。それでいいじゃないか。また似たようなモノを書いて、その輝きをすり減らしていくことに何の意味があるだろう。既に我々は「風の歌を聴け」のようなシニカルだけで生きていける世界は失ってしまった。バブル時代も終わり、制服が似合うユミヨシさんももはやドルフィンホテルにはいないだろう。我々と村上春樹は「海辺のカフカ」とともに21世紀に踏み出したのだ。例えそれが痛みを伴うとしても。
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