「蟲師」でみる自分の知らない世界 - 蟲師の感想

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蟲師

5.005.00
映像
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脚本
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演出
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「蟲師」でみる自分の知らない世界

5.05.0
映像
5.0
脚本
5.0
キャスト
5.0
音楽
5.0
演出
5.0

目次

予断と偏見

ギンコは自分の知らない「蟲」に出会ったとき、「とにもかくにも相手を知らなければ」と言います。これは「蟲」だけに限らず、それは誰に対しても大事な姿勢だと思います。人は初対面の人にであったとき、これまでの経験に照らし合わせて一番近い人物をあてはめ、自分がどのように行動したらよいか判断する基準とします。偏見に至る過程とも密接な関係があり、同じような外見の人に以前嫌な思いをした経験がある場合、その人をよく知らないにもかかわらず「嫌い」と判断してしまい「近づかない」という行為に出ます。判断するだけの場合であれば「予断」といい否定的な行動を起こす場合を「偏見」と区別するようです。

「予断」とは危険かそうでないかを判断するといった行為で、遺伝子に組み込まれた記録が判断基準となることもあるようです。ギンコが言った「相手を知らなければ」という行為はこの「予断」にあたる部分で、「蟲」自体は危険なものではないことを判断した結果出ている言葉だと思われます。「偏見」とは言葉通り偏った見方で、相手を知る前に自分で判断してしまい避けたり、ひどい時には排除しようとしたりします。角が生えた母親を「うつるといけない」「噂になってはいけない」とそういったことが起こるか起こらないかわからないうちに火葬にした親戚たちの行為が、この「偏見」という部分にあたるでしょう。

知らないものへの恐怖心

蟲師は「蟲」の存在を見ることができますが、一般の人は見える人と見えない人に分かれます。しかし、見えていてもそれが何なのかわからず「恐怖」ととってしまえば「蟲」を攻撃対象としてとらえるでしょうし、見えなければ「蟲」の影響で病んでいる人でも原因不明の病におかされた者として「恐怖」を感じるでしょう。そしてその「恐怖」は自分にもその病がうつるかもしれない、うつったら死んでしまうかもしれないという不安からくるようです。実際目の前の人が衰弱し死んでいくのを目の当たりにすれば、誰もがうつりたくないと思うでしょう。

ギンコは「蟲」たちに対し恐怖心は持っていないようです。それは「蟲」に対しての知識があるからでしょう。蟲の記録をとっている淡幽も同じで、異形の姿となっているぬいをみても恐怖心は感じていません。人は知らないもの、経験したことのないものに対し恐怖心を抱くようですが、たいていの人はそのことに気が付かないため「偏見」や「攻撃」といった行為に出てしまうのでしょう。危険回避ということを考えれば知らないことに対し恐怖心を持つということは決して悪いことではありません。しかし、必要以上の恐怖心は時に悲劇をうむこともあります。恐怖心を抱いたときに自分は何に対して恐怖を抱いているのか、それは経験したことからくる恐怖かそれとも知らないことに対する恐怖なのかを知ることができれば、ギンコたちのようにいろいろな知識や経験が得られることでしょう。

誰の体にも宿る「蟲」の対処法

「蟲師」は特別な「蟲」を体内に宿しているようです。そしてその「蟲」は宿主でなければ操れないと言われます。淡幽は「禁種の蟲」を宿していて、その虫のために命を落としそうになりますが、その「蟲」たちを愛でて退治するつもりはないようです。ギンコも体内に「常闇」という蟲を宿していますが、こちらに関してギンコは知らなかったようです。

「蟲」とは自分の中にある様々な「病」をあらわしていて、体に現れる「病」や心の「病」のほかに「性格」や「個性」「癖」といわれるものまで含められているように思われます。そのためすぐに治ってしまうものから、一生付き合っていかなければいけないものまであるのではないでしょうか。「病」に対する対処方法を知るためには、まず自分にどういった「病」があるのかを知る(これは自分で気づくのもそうですが、誰かに自分にはこういう「病」があるよと教えてもらうことで知る)、そしてそういった「病」があることを受け入れ、「病」が悪いほうに動き出したときにはどうしたらよいか、悪いほうに動き出さないようにするにはどうしたらよいかを知るということが、うまく「病」と付き合っていく方法だと思います。そして、その「病」をもったことで得られる経験を自分の糧にできればよりうまく付き合っていけるのでしょう。

ギンコは自分の中の「蟲」こそ把握はしていませんでしたが、まわりにいる「蟲」たちと共存していく方法を常に模索しているようです。そこには「蟲」たちに対する敬意が感じられます。いわば自然界に存在しているものの一部として「蟲」をとらえているのでしょう。そこには人間・蟲といった境界はなくどちらも存在する価値のあるものとしてとらえているのだと思います。淡幽が自分の中の「蟲」に対する対処法をあらわしているのであれば、ギンコは同じ地球上の生物としての「蟲」に対する対処法をあらわしているように思えます。どちらも一方的に排除するのではなくうまく共存していく方法を示しているのでしょう。

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