人情と味を食す『味いちもんめ』
目次
新宿の料亭を舞台に、成長していく板前の物語
『味いちもんめ』は小学館『ビッグコミックスペリオール』にて長期連載されていた漫画だ。
SMAPの中居正広主演で幾度となくドラマ化しているから、タイトルだけでも知っている人は多いだろう。大黒摩季の主題歌「ら・ら・ら」も有名だ。
料理漫画との見方もあるが、実際は人情と人間模様を描いた作品であり、料亭・藤村の板前や常連客たちが抱えたトラブルを、料理によって解決していくというスタンスが多く見られる。
原作者である故・あべ善太氏の本業が国語教師であった故か、作中で度々披露される落語や短歌などが物語にいい味を添えている。これらの知識は主に主人公・伊橋悟の成長への布石になることも多い。
お調子者の伊橋は、失敗を繰り返して成長していく
『味いちもんめ』は伊橋悟が板前として成長していく過程を描いている。追い回し、焼方、煮方と物語の進行と共に伊橋も出世していく訳だが、これは決して順風満帆な道のりではなかった。
まず、伊橋悟という人物が大変にお調子者であることが大きな理由だ。特に若い頃(=追い回し時代)は伊橋が板場にトラブルを起こすことが多く、ひどいときは親方の熊野に鉄拳制裁を食らうほどだった。
だが、伊橋はお調子ものであるが大変に素直な一面を持ち、それが熊野に厳しくされる(逆説的に可愛がられる)理由になっている。
たとえば、食後のデザートを”簡単”と言い切り、熊野に「じゃあ、お前やってみろ」と言われ、いざやってみたものの、食通の客にはまるで見向きもされなかった話。伊橋は試行錯誤の末、昔懐かしい瓜を出すことでようやく客に手をつけてもらえるようになる、というエピソードだ。
時に殴られ、時にプライドを粉砕されながらも、持ち前のガッツで伊橋は乗り切っていく。
その際たるものが京都修行で、新たな店”登美幸”で働くにあたり”焼き方”から”追い回し”に降格させられたことがあった。給料も下がり、また同じ追い回し修行をさせられることに当初は不満を抱いていた伊橋だったが、親方を信じて苦境を乗り切った。
このように、主人公・伊橋悟が間違いを正しながら前へ進んでいく姿は、一人の人間の成長譚として大変小気味よいものだ。
フィクションでありながら、伊橋の姿に感銘をうけ、「自分もこうあらねば」と思わせてくれる。それが『味いちもんめ』という作品の魅力の一つなのである。
伊橋だけじゃない 少しずつ成長していく人々
『味いちもんめ』は主人公の伊橋にクローズアップする話が多いが、脇を固める面々もわずかずつ成長していく様子が見える。
例えば伊橋の先輩である谷沢は、訥弁で田舎育ちであることにコンプレックスを持ち、伊橋にリードされることすら良しとしているおとなしい青年だが、立板の坂巻が藤村を去ったあとは実質上の藤村のNo2になり、積極的に板場を仕切っていくようになった。恋多き伊橋より先に結婚したことからも、谷沢の成長が垣間見える。
また、後輩である黒田や渡辺も、追い回しから段々と実力を上げていく。二人は伊橋の後輩であるが故に伊橋に怒られることもたびたびあったが、やがては迷いもなくなり、藤村の一員として仕事に励んでいく。物語のなかで黒田は京都へ、渡辺は『味いちもんめ 独立編』で伊橋の店のスケ(助っ人)に来るようにもなり、読者の知らないところでちゃんと彼らなりの人生を送っているのだと感心してしまう。
『味いちもんめ』に教わることは多い
こういった人間ドラマがあるなかで、忘れてはいけないのが『味いちもんめ』の深いエピソードの数々である。
深い、と一言で片づけてしまうのは、読んでいて感銘を受けることがあまりにも多く、種類も豊富で、とてもここでは言い切ることが出来ないからだ。それほど、『味いちもんめ』で学ぶことは多い。
面白いのが萩原さんの彼女シリーズ。藤村の常連客・萩原が連れてくる歴代の彼女は、誰も彼もがちょっと常人とは感覚がズレている。リクルート女、ファッショナブル女、スプーン女など、その個性は様々だ。そしてほぼ全員が、同じく藤村の常連客である円鶴師匠と村野社長に怒鳴られてしまう。その、二人による説教がとても的を射ていて爽快なのだ。
例えばスプーン女の回。帰国子女であるスプーン女は、狭いカウンター席に腰を下ろす際、隣人に一言も声をかけない。藤村が萩原からの頼みで出した”箸訓練用のお通し”を食べるときも、箸使いに苛立って小鉢の中をぐるぐる吹き飛ばすようにかき混ぜるが、周囲に謝ることもない。それを見ていた円鶴が怒鳴る。「いいかい萩原さん、そいつに必要なのは箸づかいじゃねぇ。もっと人間として大事なもの…気遣いが欠けちまっているんだ」と諭す。
あまりに的確な指摘に、読者は爽快感を覚えながら「全くそのとおり!」と膝を打ってしまうのである。
こういった改善懲悪モノが挿入されるのも、『味いちもんめ』楽しみの一つだ。
原作者急逝によって『味いちもんめ』は新エピソードで
12年にもわたる長期連載を順調に続けていった『味いちもんめ』であるが、突然、原作者の訃報が知らされる。
『味いちもんめ』は前述したように、人情話が持ち味になっていた作品だ。原作者のあべ善太以外に、藤村の物語は続けられないと判断され、休載を余儀なくされた。
やがて、『新 味いちもんめ』として連載が再開されるに至ったが、舞台は新橋の老舗料亭へと移り、伊橋が藤村の板場に立つことはなくなったのである。
原作者の急逝とはいえ、読者からすれば藤村の花板になる伊橋も見たかっただけに、とても残念だ。
だが、伊橋の物語はまだまだ続いていく。
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