山本覚馬のプロフィール
本名 | 山本覚馬 |
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よみがな | やまもと かくま |
生年月日 | 文政11年1月11日(1828年2月25日) |
性別 | 男性 |
国籍 | 日本 |
住まい | 会津→京都 |
所属 | 八重の兄。会津藩士。砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。 |
価値観 | 「国が敗れ、滅び、灰になっても、その中から、身一つで立ち上がる者がきっといる。生き残った俺たちが、やらねばなんねえ。」「その剣(つるぎ)を打ち変えて鋤(すき)となし、その槍(やり)を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず。二度と再び、戦う事を学ばない。」 |
武人の時代 | 文武両道に秀で、八重の熱意を認めて彼女に鉄砲の手解きをする。藩命で江戸に留学して佐久間象山の門下で学び、藩軍備の洋式化を目指すが、藩の保守的な気風に阻まれ、重役を批判して禁足処分を受けるが、西郷頼母の尽力で処分を解かれ、兵制改革の担当者に登用される。藩主・松平容保と共に上洛し京都の治安維持に当たり、禁門の変でも活躍するが、眼に異常を感じ、白そこひと診断され、失明宣告を受ける。 |
治政の時代 | 鳥羽・伏見の戦いを止めるべく大坂に赴こうとするが、薩摩兵に捕えられ幽閉される。獄中で会津を救う嘆願を続ける一方、政治意見書『管見』を作成。獄中で完全に失明し薩摩兵の暴行の後遺症で歩行困難な身となる。戊辰戦争後、『管見』を読んだ岩倉具視の推薦で京都府顧問として出仕、京都の復興と文明開化の中心人物となり、襄の学校設立にも協力、知事の槇村と対立し解雇される。後に府会議員に当選し初代議長に就任。議会で槇村の横暴に立ち向かい槇村と刺し違える形で府議を辞職。その後は商工会議所会長として京都の発展に尽くした。 |
信仰の時代 | 襄の死後、同志社の臨時総長を務めた。卒業式では日本が戦争に向かっていることを憂えて聖書の一節を通し「二度と再び戦うことを学ばない」ことを祝辞として卒業生に送った。その後は小崎弘道に職を譲るが、間もなく八重と佐久に看取られながら、その生涯を閉じた。 |
八重の桜の他の登場キャラクター
八重の桜の感想
動乱の世に生きた、たくましい女性の姿
震災を経験して生まれた、新たな焦点としての大河東日本大震災を経験したから生み出された大河ドラマ。未曾有の大震災に見舞われた東北を元気付けるにふさわしい内容だった。会津藩砲術師範の娘に生まれ、のちの新島襄の妻となる八重は、歴史上あまり表で出てこない。しかし、その生き方は一本道で男勝り、決して負けない力強さが、復興への道を進める被災者を勇気付けるものである。幕末を描いた大河のひとつに篤姫があるが、同じ幕府側としても、頂点からまとめ上げた篤姫とは違った視点の現場の目線で描かれたことが、幕末の動乱をリアルに写し、会津の思いを人々に共感させたように感じる。白虎隊や新撰組など、幕末を語るのに会津は欠かせない要素であるが、思えば会津に焦点を当てた物語はこれまでなかったと思える。敗者としての会津から、幕末をどう見るのか。そして、現場にいた女性が何を訴えられるのか。新たな視野を広げてくれ、東北をおおいに...この感想を読む