山川浩のプロフィール
本名 | 山川浩 |
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よみがな | やまかわ ひろし |
生年月日 | 弘化2年11月6日(1845年12月4日) |
性別 | 男性 |
国籍 | 日本 |
所属 | 会津藩士、陸軍軍人、政治家 |
性格 | 腕っぷしが強く強情な性格だった。 |
価値観 | 「今のこの国は、会津人が・・・会津人が流した血の上に出来上がっている!」「逆賊と呼ばれ続けんだろう。それでも百年後、会津が日本の誉れになる日が来っかもしんねえ。それはお前ら、若い者次第だ。」 |
物語上での目的 | 山川家の長男。幼名は与七郎(よしちろう)、長じてからは大蔵(おおくら)を称する。八重とは幼馴染で、密かに想いを寄せていた。父親を早くに亡くし、若くして山川家の当主となる。京都へ上り、容保の側近として活躍して奏者番に昇進。さらに幕府の外国奉行の供として欧州を回り見聞を広めて帰国する。 |
経歴・幕末 | 鳥羽・伏見の戦いでは洋装して前線で指揮を執り、瀕死の重傷を負った三郎の最期を看取った。会津戦争では日光口の守備を任され、板垣退助率いる新政府軍の進軍を阻み、佐川官兵衛と共に家老に進んだ。新政府軍に包囲されている鶴ヶ城に帰城する際、行軍の列の先頭に彼岸獅子を立てる奇策で入城に成功。会津戦争後、他の藩士と共に猪苗代の謹慎所送りとなる。戊辰戦争後は容保の助命嘆願や家名再興に尽力し、家名再興が許されると斗南藩の大参事に就任。藩は財政難に苦しめられ、藩の為に行動した尚之助の裁判でも苦渋の決断で藩の関与を否定した。 |
経歴・明治時代 | 廃藩置県後、陸軍に仕官して佐賀の乱の鎮圧にあたり、その際の負傷でに左腕が不自由となる。西南戦争にも出征し、西郷軍に囲まれた熊本城に入城するという功績を挙げた。一方で自宅に多くの会津出身者を書生として抱え、彼らの育成に心を砕く。また容保から孝明天皇の「御宸翰と御製」を託され、会津の雪免を目指して『京都守護職始末』の編纂に着手するが、完成を健次郎に託し息を引き取った。 |
八重の桜の他の登場キャラクター
八重の桜の感想
動乱の世に生きた、たくましい女性の姿
震災を経験して生まれた、新たな焦点としての大河東日本大震災を経験したから生み出された大河ドラマ。未曾有の大震災に見舞われた東北を元気付けるにふさわしい内容だった。会津藩砲術師範の娘に生まれ、のちの新島襄の妻となる八重は、歴史上あまり表で出てこない。しかし、その生き方は一本道で男勝り、決して負けない力強さが、復興への道を進める被災者を勇気付けるものである。幕末を描いた大河のひとつに篤姫があるが、同じ幕府側としても、頂点からまとめ上げた篤姫とは違った視点の現場の目線で描かれたことが、幕末の動乱をリアルに写し、会津の思いを人々に共感させたように感じる。白虎隊や新撰組など、幕末を語るのに会津は欠かせない要素であるが、思えば会津に焦点を当てた物語はこれまでなかったと思える。敗者としての会津から、幕末をどう見るのか。そして、現場にいた女性が何を訴えられるのか。新たな視野を広げてくれ、東北をおおいに...この感想を読む